(………)
 目を覚まし、目の機能を働かせると、八坂の見たこともない天井が感知された。
(あれ、どこだろう、ここ?)
「くそ………」
(え、あれ?)
 思う間に自分の声で、誰かがうめく。いや、誰かではない。今八坂の身体は八坂の意識を無視して勝手に動き、喋っている。
(―――んだよなあ)
 そう結論付けてみる。自分の身体が自分の意識を離れて動くなど経験したこともない事態だが、多分そういうことなのだろう。
 驚くことに一段落させて、辺りを見まわそうとしてみるが、それができない。
 誰かの身体の中に、自分の意識だけが閉じ込められてしまったと言えば一番近いか。
 天井、壁、天井、全てが剥き出しの岩壁。
 今自分が横たわっている寝台と、その傍らに脚立のような台があって、その上に燭台がある。これがこの空間唯一の照明だ。
 それだけ。部屋とも言えない薄暗い空間。つまり洞窟。右手に出口が続いているらしく、光が差し込んでいる。光からして、今は昼過ぎというところか。
「っ………」
 また、「彼」がうめく。
 制限された範囲の視界でもよく分かる。「彼」はずいぶん怪我をしているようだ。しかし、八坂にその痛みは伝わらない。
「気がついたようですね。大丈夫ですか?」
 出口のほうから、別の声がして、女の人が木の桶を片手に入ってくる。
(ええと、首飾りみたいなのが頚玉で、上着は衣で、下のスカートみたいなのが裳だったっけ? 他は……僕も勉強が足りないなあ)
 入ってきた女の人の服装に、適切な名詞を当てていこうとするが、全部に対して適切な言葉を思い浮かべることができない。ざっくばらんにいってしまえば、「神社の巫女さんの服装に、装飾品を幾つかつけたような格好」ということになるだろう。
 女の人は、手にした木桶をその場において寝台の近くの椅子に腰を下ろす。
「無理してはいけませんよ。まだ当分は安静にしていなければ」
「誰が無理させてると思ってんだ……」
 気遣う言葉をかけられても、「誰か」はまるで感謝の意思は見せない。
「これで何回目になるのか、もう私は思い出せません。随分頑張りますね」
(そう、随分失敗している)
 目の前の女性の言葉が引きがねとなって、今自分がその中にいる「彼」の記憶が八坂の意識の中に流れ込んでくる。
 特殊な力で封印されたこの洞窟から脱出しようとして、何度失敗したか覚えていない。
 その都度全身傷だらけになった「彼」を、目の前の女の人が、ここまで連れ戻し、横たえている。そして、目の前の女性こそは、もう一人とともにこの洞窟を特殊な結界で封印した当人であり、今八坂がその中にいる「彼」から見れば「姉」にあたる人物だった。
「何度だってやってやるさ……ここから出られるまでは何度だってな」
「何度やっても結果は同じです。あなたの力で、外に出ることはできません」
 二十代の真ん中辺りの外見を持つ女性はいう。整った容貌と、深い黒さをもつ長い髪。そして全身から後天的努力では絶対習得不可能な高貴さを湛えている。高貴でありながら、鼻につくことは少しもない。温和さと暖かさをあわせ持つ「姉」の、冷淡な口調。
「それに何より、今からもう何度もやっている時間はありません。そろそろ始まる時間です。そして日が暮れる頃には全てが終わった後です」
「それで、その瞬間に、俺がどんな面をしているのか、見物に来たって言うのか?」
 憎憎しげな「彼」は吐き捨てる。
「辛いのは、あなただけではありませんよ」
「知ったことか!! 俺にはあいつが全てなんだ。他に何があろうとも、あいついない世界なんかに意味はない!!!」
 傷ついた身体で「彼」は叫ぶ。
「その彼女は、あなたが生き続けることを願って、運命を受け入れたのですよ。今不用意に、彼女の死を悲しむことは、彼女の意思を汚すことにほかなりません」
「言葉を飾るな!! 何が『運命を受け入れた』だ!!! 確かに、あいつ以外は全員志願だろうさ。けどあいつだけは、うんというまで姉貴とその取り巻きで何度も何度も拝み倒したんだろうが!!!!」
「知っていたのですか………」
「俺があれから他の方法を探してないと思ってたのかよ!!!! 何とか八方上手く収める方法を見つけるために、思いつく方法はそれこそ何だってやったんだ!!!!!」
 一気に怒鳴るだけ怒鳴った後、洞窟の中に淀んだ沈黙がたちこめる。
 それを振り払うように彼女はため息をつく。そんな様すら、十分高貴で美しい。
「……あなたの言う通りです。確かに彼女だけは代替が効きませんでした。ですが、これだけは信じてください。我々は決して彼女に強いてはいません」
「同じことだ。納得するまで説得を止める気はなかったんだろう!!!!!」
(そうされれば、あえて嫌だといえるような性格じゃあないしなあ)
 誰かの記憶が八坂にそう告げている。「あいつ」はそういう性格だった、と。
「そうですね。我々が強く頼めば、彼女は嫌とは言わない。それを見越して、我々は彼女に頼んだのです。あなたの言う通りです…… あなたには、我々を呪い憎む資格があると思います」
「……すまない。言い過ぎた。姉貴が辛くないはずなかったよな」
 本来の性格を思い返しながら、「彼」は謝罪する。自分でできるものなら目の前の彼女は躊躇いなく自分がその役目を背負うだろう。
 それすらできないから、この場にいない「あいつ」を犠牲にするしかなかったのだ。
 うつむいていた「姉」が、顔をあげる。
「……全てに代えても、彼女を助けたいと思いますか?」
「当たり前だろ」
「そのために全てを失う手始めとして、二度とこの地へ帰って来れなくなったとしても、さらにどのような汚名を背負うことになっても後悔しませんか?」
「……ああ」
 少し考えただけで、すぐ結論は出た。
「なら、背を向けた私を斬りつけなさい」
「な………」
「私が倒れ、陽の力が弱まっている間なら、結界を突破できるはずです。あなたはそれを狙って、背を見せた私に斬りかかった。以後表向きはそう語られることになります」
「姉貴………」
「………悪い姉ですね。弟の我がままをたしなめもせず、手を貸すのですから」
 家族を、弟を慈しむ目を「姉」は「彼」を見つめた後、立ちあがる。
「私が倒れたことを知れば、何とか回復させようとするでしょう。ですから外に出たら、この洞窟を壊し、入り口をふさぎなさい。そうすればもう少し時間を稼げるはずです」
 「姉」は立ち上がり、ゆっくり背を向ける。
「本当の意味で闇に覆われている時間は、私が洞窟にいる間くらいです。その間に包囲を突破して彼女を助け出し、そのまま逃げ切らなければなりませんよ、いいですね?」
 なお唖然とする「彼」に、背を向けたまま、それだけ言う。
「姉貴………」
「急ぎなさい、時間はありませんよ」
「すまない……」
 これからやることの意味を思えば、感謝より謝罪が先に立つ。
「私に謝る必要はありません。むしろ私こそ、このような形でしかあなたの力になれないことを謝らなければなりません」
「ありがとう、姉貴」
 「彼」は無防備な背を向ける姉に駆け寄り、右手に出現させた剣で斬りつける。
「あ……」
 微かなうめきと共に倒れる姉へ「彼」はかけより、片膝をつく。
「姉貴……」
「………私は大丈夫です。急ぎなさい、あまり時間はありませんよ………」
「……ありがとう、姉貴」
 最後にそれだけを言うと、倒れた姉に取り合わず駆け出す。
 その「彼」に光る壁が立ちはだかる。
 一旦立ち止まると、深呼吸して覚悟を決め、壁に「彼」は手を伸ばす。
「……くっ」
 激しい痺れが、「彼」の身体を走っている。そんなうめきを漏らす。
「うおおおおおおおおっ!!!!!」
 弾け飛ぶ音の後、「彼」は光る壁を引き千切ることに見事成功した。
 そして倒れこみそうになる身体を何とか跳ね起させると、そのまま洞窟を出る。
 本来この辺りは岩山のはずなのだが、もう闇のためそれすらもよく分からない。
「食らえ!!!」
 外まで出て振りかえると、「彼」は「姉」へしたのと同じように斬りかかる。剣からほとばしった光が洞窟の天井辺りに直撃し、岩が崩れ落ちて「姉」を外部と隔絶させる。
 その後、「彼」一旦目を閉じて、深呼吸。
 そして見開くと同時に、「彼」の視界は真っ白になった。
 その白もすぐ終わり、また闇がくる。だが、白の前と後で闇の内容は違っていた。
 もう辺り一面闇のため、はっきりとしたことは分からない。だが白くなる前に見ていた光景は確かに岩山だった。だが、今闇の向こうにおぼろげながら見える光景は岩山ではない。足もとの感覚と会わせて考えるに、多分ここは草原。そして、白くなる前と決定的に違うのは、右手の方向に光る柱が見えることだ。
「……もう、思った場所にも行けねえか……」
(それだけ傷ついてれば、無理ってものだよ)
 本来なら「彼」は、思ったところに瞬間移動できる。だが、今の「彼」満身創痍だ。
「もう一度……」
 今度こそ、狙ったところに瞬間移動するため、意識を集中させる。その眼前に落雷がやってきた。
「!!!!」
 咄嗟身構える「彼」を、轟音が貫く。その後には、若者が一人。
 「彼」と同じような古墳時代みたいな格好をした若者が、「彼」と相対している。
(……え……あれ? 君は……誰だっけ?)
 八坂は思い出せない。目の前に突如現れた誰かを、八坂は知っている。知っているはずなのに、名前がでてこない。八坂が思い出そうとしている名前と、「彼」が思い出そうとしている名前が錯綜し、一つに絞り込めない。
 ただ、確実に分かることは、今目の前にいる「誰か」は、八坂が今中にいる「彼」にとってかけがえのない親友だということだ。それだけは絶対に確かである。「彼」が「誰か」を見た瞬間感じた親愛の情は、今は名前を思い出せないが、八坂がかけがえのない親友に感じるそれと同じだから。
「どうしても、行くのですか?」
 八坂が、そんなことを考えている間に、目の前の「誰か」は「彼」に尋ねる。
「……通してくれ、時間がないんだ」
 「彼」の右手に光が集まり、剣になる。
「……では、仕方ありません」
 合わせて、対峙する「誰か」の右手にも、剣が実体化する。
(随分長い剣だなあ。剣身を槍みたいに持って戦ったほうがいいんじゃない?)
 つい八坂がそう思ってしまうのも仕方ないくらいその剣は長い。柄も合わせれば三mに届くほどある。
「いくぞ!!!」
 八坂が感心している間に、「彼」は一気に「誰か」との、距離を詰め剣を振り下ろす。
 手加減など全くせず、頭めがけて。
(え、ちょっと待って!!!!)
 思わず八坂は心の中で叫んでいた。こちらが満身創痍とはいえ、八坂が今名前を思い出せない親友に全力で打ちかかったりしたら、大変なことになってしまう。
 だが「彼」が「誰か」に放った攻撃は当たらなかった。「誰か」の残像だけが両断され、闇にとけこんで消えた。
「後ろか!!!」
 「彼」言いながら振り向こうとした瞬間、後頭部でなにかが爆裂した。
「ぐっ!!!!」
 思わず声を上げる間に、「彼」ははいつくばらされていた。
「やっぱり、強いな……お前は………」
 身体を起こしながら、「彼」は賞賛する。
 どうやら、「彼」と「誰か」の関係は、八坂達の関係とは少々違うらしい。「彼」と「誰か」は総合的にも実力伯仲の関係のようだ。万全の体調でぶつかっても勝てるか分からない相手に、激しく傷ついた身体で挑むというのは、無謀というほかはない。
「おあきらめ下さい。彼女も、あなたを含めた我々全てのために、その命をささげることを決断されたのです。今、下手に彼女を助け出すことは、その彼女の意思そのものすら貶めることに他なりません」
「嫌だ!!!!! 俺は嫌だ。あいつのいない世界なんて、俺にとっては何の価値もないんだ!!!!」
(「あいつ」って誰なのかなあ)
 今まで会話だけ聞いても、二人は互いを憎みあっていないとわかる。だが、その「あいつ」がいるために、「彼」と「誰か」は戦わなければならなくなっている。
「くそっ!!!!」
 「彼」が斬りかかるが、「誰か」はその攻撃を簡単に飛びのいてかわす。
「がっ……」
 そして、直後に背中に痛みが走る。
(え、なんで?)
 確かに今「誰か」は「彼」の前方にいる。なのに背中から攻撃された。
「仕方ありません。多少乱暴な方法を使ってでも眠って頂きます。その責めは、後でお受け致しましょう。今はお眠り下さい」
 友の手の中に収められていた長い長い剣の光が、一層大きくなる。
「御免」
 剣が振りかぶられる。この一撃を食らったらもう手遅れになる。次に意識を取り戻した時は、間違いなく全てが終わった後だ。
「うわあああああああああああっ!!!」
 「彼」は叫んだ。ただ、怖かった。死ではなく、別れが怖かった。
 恐怖に全身のままに動くと、鈍い手応えが右手の剣に走った。
「え……………?」
 目の前にあった「誰か」の姿が、今はない。
「か……………はっ……………」
 代わりに、後ろで苦悶のうめきがする。慌てて振り向くと、そこに「誰か」が片膝をついていた。その背中からでも分かるほどの出血跡が、右脇腹にある。
 そして、今自分の右手に収まった剣にも、生々しい血糊がついている。
「……勝った……?」
「く…………っ……………」
 信じられないが、そういうことらしい。「誰か」は苦悶のうめきをあげている。長い剣を支えに何とか立ち上がろうとするが、右脇腹の負傷は思ったよりも大きいようだ。それもままならない。
「……まだ、これほどの動きが………」
「……悪いな。行かせてもらうぜ」
 空が少し明るくなった。「姉」が異変を察した取り巻きたちにより、あの洞窟から救出されたのだろう。
「許してくれとは言わない。じゃあな」
 最後にそれだけ言って走り出す。
「待ってろ。今行くぞ!!!!!」
 「彼」が叫んだ瞬間、ある人物の映像が八坂の意識で浮かび上がる。
(これは………?)
 八坂が自覚したのはある女性だった。「姉」と同じような、古代風の服装をした、幼馴染。
(これが、「あいつ」? 「あいつ」って……あれ、誰だっけ?)
 忘れるはずのない名前が、出てこない。
(えーと)
 考える間にも、「彼」を通して見ていた光景は、揺らぎ、ぼやけ、不鮮明になっていく
(そんなぁ)
 延長サヨナラがかかった場面で時間切れになる野球中継へとほぼ同じ不平を漏らすが、そんな苦情もお構い無しだ。
(次に起きるときは家のベッドかな……)
 そう思う間にも、辺りの全てが闇に侵食され、ここ数日八坂の仮住まいとなっている市外のホテルの天井にかわられる。
「……今のは?」
 厚手の黒いシャツ、膝下あたりまである半ズボンという普段の寝間着のまま、ベッドの上で体を起こす。
「これが、今まで見た夢の内容なのかなあ」
 ここ数日、八坂は妙な夢を見ていた。はじめて夢を見たのは、鹿島と稲穂が襲撃を受けた日。以来、八坂は妙な夢を見ていた。何がということもなく、ただ「悔しい」とか「時間がない」とか、断片的な感情だけがやたらと渦巻いているおかしな夢だった。
 それらの断片的な感情が、今の夢の中にはすべてあった。
「ま、いいか」
 考えたところで何がわかるわけでもない。その一言で、八坂は考えることを止めた。
 八坂には、当面差し迫った問題がある。夢など深く考えている時間はないのだ。



<これで……いい…………>
 今の言葉は心の中の言葉ったのか、あるいは口に出された言葉だったのか、もうそれすらはっきりしない。もう、親友の足音は聞こえない。遠くまで駆けていったからではない。自分の意識が途絶えかけているから、普段なら聞こえるだろう音が聞こえないのだ。
<私は……このまま……死ぬのか……>
 先ほど受けた右脇腹から、血と共に命が抜け落ちていくのがわかる。
 自分達は「不老」の身体を持っているが、「不死」ではない。事故などに遭遇すれば死ぬことを物語る事例は無数ある。そして今自分は右脇腹に重傷を負い、大量の出血をしている。速く何かの処理をしない限り、間違いなく死ぬだろう。
<それも、よしか……>
 今更生き長らえて、何をするでもない。
 天界の守護者としての道を全うするなら、手加減する必要などする全くなかった。
 今、自分が右脇腹から大量に出血しているのは、最後の力を振り絞った友の一撃が、予想を超えて強力だったからではない。自分が避けなかったらだ。
 私情など捨てていれば、満身創痍の友を気絶させて捕らえることなど雑作もなかった。
 だが、それができなかった。例え自分に振り向くことがなかったとしても、今なお想う女神を死に至らせるという現実を、黙って見過ごすことはできなかった。
<度しがたい………男だ………>
 「彼女」の死を見過ごせないというのなら、負けたフリをするまでもない。全てを敵に回してでも、今し方自分に致命傷を負わせた友と共に全てを敵とし戦えばよかったのだ。
 だが、その道も選べなかった。
 自分に振り向くことは絶対にない相手のために全てを捨てることが、できなかった。
 だから、今自分は倒れている。
 天界の剣神として反逆者と戦ったが、力及ばず敗れた。今更そんな建前に拘っている。
 救いがたいほど愚かで優柔不断な自分。
<惨めな死が、似合いの死に様か……>
 意識を強く持てば、もう少し消耗を抑えることもできるだろうが、流れ落ちる命を押し留めとせずに、全身を浸す死に全てを任せる。 
 どこかで、なにかが吼えた。
 どうやら、間に合ったようだ。自分の脇腹を切り裂いた友は、封印の儀に割り込んで彼女を無事助け出すことができたらしい。
<ご武運を…………>
 つきゆく命の中、願う。互い以外の全てを敵に回してしまった二人に、せめてもの幸あらんことを。
『大丈夫ですか!!??』
 遠くて近いどこかで、そんな声がした。
『おい、こっちだ!!!!!』  
 そんな声がさらにすると同時に、誰かが自分を抱き起こす。
『大丈夫です。今助けます!!!!』
 誰かが、そんなことを言っている。自分と同じような上衣と袴姿の若い男が、自分を抱き起こしている。
「この傷つきし身体に、今一度力を!!!!」
 その傍らで、若い女性がそう力強く言うと、否応なく自分の身体に活力が流れ込んできて、痛みをあっという間に取り払う。
「大丈夫ですか?」
「……ああ」
 まだ完全とはいかないものの、もう右脇腹の痛みはかなり和らいでいる。
「……封印は、どうなった?」
「……残念ながら彼女を奪われてしまいました。現在もお二人は逃走を続けておられます」
 上体を起こし、傍らに跪く男女に尋ねると、そう返事が返ってくる。自分達の計画を妨害したものに「お二人は逃走を続けておられます」と敬語を使うあたりにも、事情の複雑さが見え隠れしている。
「追手は放たれたようですが、何分この暗闇です。捕縛はほぼ絶望的でしょう。それにしても何故急にこんな暗闇が……」
「恐らく、あの方が主上を害したのだろう。それで主上の力が衰え…っ……」
 更に立ちあがろうとして、鈍痛が走る。
「無理はお止め下さい。傷は塞ぎましたが、当分は安静が必要です」
 言いながら若者が、自分に肩を貸す。
「……すまない」
「お気になさらずに。あなたにできなかったことは、他の誰の手にも負えなかったでしょう。あなたが死力を尽くして戦われたことは、傷を見れば誰でもわかります」
「……」
 皮肉ならば、いっそ救われる。だが、若者は本心からそういっている。
「では、参りましょう」
 若者が言い、周辺が淡い光で包まれた。
 きーんこーんかーんこーん
 その瞬間、授業の終了を告げるチャイムが鳴って、意識が一気に現実に引き戻される。
 瞼の裏に眠気の残る目で壁掛け時計を見ると三時四十分。眠気との戦いが最も辛い最終授業は、たったいま終わったようだ。 
 昨日もそうだった、そして明日も同じだろう見なれた教室の中は、解放に沸き立つ高校生達の言葉で溢れている。
 ここは千葉県立八代高校3−B教室内部。八年前に千葉県北西部の市町村が幾つか統合して東葛飾市が誕生と同時にできた高校だ。
 寝ぼけた頭を振る鹿島の周辺で、様々な言葉がぶつかり、合意に達したり、断られたり、新たな提案を再生産したりしている。
「お、起きた起きた」
「おはよう、高原君」
「………おっす」
 何となく目をこすって、鹿島は答える。
 どちらも慣れたものなのは、ここ十日ほどほぼ毎日鹿島は眠りに落ち、授業中か終了後、こんな風に起きているからだ。
 この時間帯に眠ること自体は特別珍しくもない。鹿島に限らず、大抵の人間は眠る。起きている人間の半分近くは別のこと、例えばマンガとかに没頭している。
 しかし鹿島はここ半月程、そういう次元とは別の、かなり深い睡眠を強いられ、そして目覚めては後悔に襲われていた。
(くそ、また眠ったのか)
 起きて早々、眠ってしまった自分に対する苛立ちが沸きあがる。
 前回いきなり街中襲いかかってきた相手だ。授業中の学校にいきなり襲いかかってこないとも決して断言できない。もし今、実際そうなっていたら、自分はどうなっていただろう。寝ぼけた頭で、本当にまともに戦うことができただろうか?
 そう思っては後悔することが、日課のようになってしまっていた。
 今見た夢についてはもう詮索する気にもなれない。ここ数日鹿島は寝ればほぼ同じような夢を見ている。
 リーダー格だろう白髪の少年が逃げ、次もくるといっただけで、具体的な次はいつという予告があったわけではない。
 襲撃から三日間、周辺を巻き込むことを恐れて稲穂は理由に学校を休んでいた。
 だが、いつまで経っても次を匂わせる行動は起こっていない。
 少年の存在自体は、確かに確認されている。はじめの襲撃から今日まで十六日間で二度、真っ白な髪の毛の少年が、駅前近辺でたむろしている十代後半の若者たちに、「面白い話がある」と誘っている現場が目撃されている。一度はその現場に巡視中の警官が遭遇したが、少年は呼びとがめられた瞬間信じられない速さで逃走したという。現場に残る誘われた少年達は、呆然自失状態だった。
 ここ東葛飾市から数十キロ離れた上野警察署より、二度そう報告されている。
 白髪の少年は、今も一度目の襲撃現場から動いていない。となると次があるようにほのめかした言動は、単に襲撃が失敗したことへの負け惜しみだったのか。
 それならいいのだが、そう判断するだけの証拠もない。ひょっとしたら、こちらを油断させるためにあえて目に付くような動きをしている可能性も完全にないとはいえない。
 いっそ真正面から攻め込んできてくれれば対応も楽だ。そいつらを片っ端から倒していけばいい。しかし敵が今の時点で存在しているのかどうかも不明という不透明不安定な状況は、いかんともしがたい。
 そんな日々は鹿島の精神を確実に消耗させ、生活のリズムも狂わせていた。一度など睡眠中クラスメートが落とした筆箱の音に反応して、危うく例の「力」を全開放させかけすらしている。
 そしているのかどうかも分からない敵の存在以上に、心の中に住みついたある恐怖が、鹿島の心を一層すり減らしている。
「鹿島君、どうしたの?」
「さ、帰ろうか、鹿島」
 気がつけば、恐怖の原因となっている二人が自分の前にやってきていた。
 当然のことながら、稲穂も八坂も制服姿である。手荷物がスポーツバッグだったりブリーフケースだったりする以外は、他と比べても特別替わりのない服装だ。
 ブレザー下で稲穂の身体を包み込むブラウスの下には黒いものが見える。先日の防弾防刃服である。これは鹿島も身につけている。
「………ああ、そうだな」
 できるだけ彼らと目をあわせないようにしながら、鹿島は立ち上がる。
「さあ、いこうか」
「うん」
 三人で昇降口に向かうため歩いていると、自分達の姿を見とがめて、同じクラスの女子生徒が二人やってくる。
「先生は、今日もこれから缶詰なの?」
「まあね、締め切りが近づいているから、せっつかれて中々に大変だよ」
 いつのまにか、八坂はそう応える。
 「先生」というのは、八坂のあだ名だ。
 作家でもある八坂をクラスメイトの一人がそう呼んでから、すぐ定着した。
 実際、八坂は色々な意味で「先生」と呼ばれるに足るものを持っている。
 十八歳からはかけ離れた物腰と落ち着きをもっている点は、単純に年長者として「先生」。
 腕っぷしは文句なく最高で、地元の腕に覚えある連中は「永久欠番」「聖域」などと呼んでいる点は、時代劇の悪代官が用心棒を呼ぶのに近い意味での「先生」。
 現時点で個人資産は億円単位である点は、キャバレーの呼び込みが金を持っていそうな客に使う「先生」、というよりは「社長」。
 他にもモデル並のルックス、成績は特に勉強しているようにも見えないのに常にトップクラスなど、「先生」以外にも褒めちぎれる部分には事欠かない。それが八坂だ。
「またホテルで缶詰か。そう思うと、足取りもあんまり軽くならないなあ」
 女子生徒二人と雑談しながら、八坂はそんなことをぼやく。
「人気作家も大変ね」
「芸能人と、どっちが大変だと思う?」
「わからないわね。内容が違うから、簡単には比べられないんじゃない?」
「そうかもね」
 二人の女子生徒の言葉に、稲穂は辺り障りのない返事を返す。二人は、「八坂が締め切りに負われて現在ホテルに缶詰されている」という言葉を信じているが、鹿島はそれが事実ではないことを知っている。そして鹿島の知っている事実が、不安を一層派手に煽る。
 結局「稲穂は護衛達と一緒にホテルにでも泊まる」という案は採用された。
 今稲穂は表向き「仕事の都合上」ということで、八坂やマネージャーなどに扮した護衛数名とともに市外のホテルに泊まり、そこから学校に通ってきている。
 一方八坂は八坂で、今の会話に出た通り、最近放課後は稲穂とは別のホテルに強制連行されている、という建前だ。そして二人は一時的に方向を違えた後、同じホテルに向かい、そこで生活しているわけである。
 つまり八坂と稲穂は、現在同じ屋根の下に住んでいる。そのシチュエーションに対する危機感を、鹿島は頭の中から消せない。
 八坂も十八、稲穂も十八。同じ屋根の下に住んでいて、咎めるものはいないのだ。「間違い」が起こらない方がおかしい。
 この手の妄想は口外などしようものなら、本人の品性に致命傷を与えかねない。「お前がそうしたいからって、皆が同じだとは思うなよ」といわれてしまったら、全く返す言葉がなくなってしまうからだ。
 「子供が一時の感情で行動するんじゃない」などという大人の賢しらな言葉も、簡単にはねかえすことができる。八坂と稲穂のこれまでの収入を合計は、既に日本人の平均的な生涯収入を大きく上回っている。これから全く仕事をしなくても、二人は面白おかしく一生遊んで暮らせるのだ。
(大体仮にそうだとして、俺にどうこういう権利や資格がどこにある?)
 本人達が合意しているのなら、何をしようといいではないか。鹿島が余計な口を差し挟む余地などそれこそまったくない。そう自分に言い聞かせようとしてみるが、不安感は質量豊富な栄養に支えられ、こうする今もすくすく成長していく。
 一人鬱々とした思いを抱えて、他の四人の会話を聞き流しつつ昇降口まで向かい、靴を履き替えると、高校には相応しからぬ背広姿の男性が、二人待ち構えている。
「お疲れ様です」
「さあ、今日も一日頑張ろう」
 稲穂が二人のうち一人と挨拶する。
 一方八坂は、もう一人無言のまま後ろにつかれ、肩を竦めてそのまま歩き出す。
 「締め切りに追われる作家と、作家を捕まえる編集者」の関係をパントマイムで表現しているようで、何度見てもつい笑ってしまう。 
 二人は学校終了後八坂を拘束しに来る編集者と、稲穂を迎えに来るマネージャーを演じる、刃が紹介してくれた信用できる護衛だ。
 そして歩き出したその瞬間、それは来た。
 きいいいいいいいいいいいいいいん
「……!! これは……」
 先日より鋭い音が、耳を貫く。
「うああああっっっ!!!」
 昇降口の前で雑談している男子生徒二人連れが、突然絶叫して頭を抱え始めた。
「二人とも、下がって!!!!!」
「うああああああああああああ!!!!!」
 八坂の前にいた女子生徒二人が叫び声で空気を震わせながら、一瞬で人にはない何かを存分にたぎらせ襲いかかってくる。
「くっ!!!!!!!」
 奇襲ではなく、彼らは顔見知りという認識が八坂の反応を遅らせている。
「がああああああ!!!!!」
 だが、獣さながらの叫び声が稲穂と鹿島への危機感を触発させ、自分を組み伏せてのど笛でもかみ切ろうと、襲いかかってくる(元)顔見知り二人を処理にかかる。
 高校生としては驚異的な脚力だ。身長百九十五を超える自分へ覆いかぶさってくる二人のうち、右側に照準を合わせる。
「ふっ!!!!!」
 遠心力を利用して右側の胴体に右拳を叩き込み、同じように左から飛びかかってくる二人目にぶつけると、二人は重なって倒れた。
 まず先んじて二人片付けた八坂の傍らで、鹿島も周辺を見渡す。
(他にはいないのか!!??)
 自分の実力を、新たに手に入れた力を見せつけるための相手はどこだ!!??
 きひぃぃぃぃぃぃぃぃんん
 また空気を擦る音が耳を逆撫でする。
 それと同時に、稲穂のマネージャーをしている背広の男性が、膝をついて胸をおさえた。
「大丈夫ですか??」
「……頭が……割れる……櫛田さん、私から……離れ……」
 ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃん
 もう一度鋭く鳴り響く。まるで、何かを命じるように。
「はなれ……てぇぇぇぇぇぇぇ!!!!」
 忠告が敵意の絶叫に変わり、傍らで言葉をかけていた稲穂に襲いかかろうとする。
「危ない!!!!」
 そう言ってから動いたのか、動いてから言ったのか、自分でもよく分からないが、気がついたとき鹿島は稲穂のマネージャーの顔面に左拳を叩きこんでいた。
「大丈夫か、稲穂?」
「うん、大丈夫」
 その後見る稲穂の身体に怪我はない。どうやら、間に合ったことにまず安堵する。
「けど……なんなんだ? 操るには下準備がいるんじゃなかったのか?」
 それは前回操られていた人達が、三日近く意識がないままだったとか、あの少年がめぼしい連中を見つけては声をかけていたという事実から、自分達が勝手に考え出した推論に過ぎない。その推論に襲ってくる側が従う理由などないのは当然だが、かと言ってその場にいる人間をいきなり無差別に操れるなどというのは常軌を逸しすぎている。
「なんだよ……これ……どうなって……」
「痛いよ……頭が……助けて……」
 そこらじゅうで、男女問わず倒れたり膝をついたりしている。
 また周辺にいた三人ほどが、ゆらりと前かがみの姿勢のまま、息を荒げつつ自分に迫る。いや、彼らの狙いは自分ではなく、自分の背後にいる稲穂か。
「鹿島君!!!!」
「心配するな、下がって見てろ!!!!!」
 背にかかる言葉に、返す。
 一緒に八坂の後ろにいるだけじゃない。俺にはお前を守れる力があるんだ!!
 それを口より現実で証明すべく、鹿島は右拳に力を込める。
「いくぞ!!!!!!」
 オマエノチカラヲミセテヤレ
 炸裂する感覚と共に、力がみなぎっていく。
 さっき突発的に一瞬だけ出したのとは違って、確かな力が右手を中心に宿る。
 まだ、この力は失われていない。どうやって習得したかわからないだけにいつ失ってしまうか不安でもあったが、まだこの力は失われていない!!!!
 俺には、力がある!!!!
「はっ!!!!!!!」
「ぼおおおおおおおお!!!!!!!」
 叫びつつ飛びかかる三人(男子二人・女子一人)の内、鹿島から見て左の男子が、微塵の躊躇もなく顔面めがけ放ってくる抜き手を身体をひねってかわす。
 そのまま、本当に微かだが、間違いなく稲光を放つ右拳を、裏拳ぎみにその顔面へ。
「せあっ!!!!!」
 一人目を吹き飛ばして真ん中の二人目にぶつけ、とりあえず二人を動けなくする間に、三人目(女子)に取りかかる。
「゛あ――――!!!!」
 出来れば女子にはあげてほしくなかった叫び声と共に、目を中心とした顔面を狙ってくる一撃をかわし、
(悪いな)
 顔と腹は狙わず脇を通り抜けて、背中に右ひじの一撃を打ち込む。
「が…………」
 彼女が身体を泳がせている間に、首と頭の付け根辺りを、同じく右手刀で一打。
「ふう」
 上手く昏倒させられたことに、一安心。
(やれる!!! 戦える!!!!!!)
 そもそも敵がいないのが一番いいとわかっていても、格好の「実演相手」を手に入れたことについ歓喜の笑みが浮かんでしまうことを抑えきれない。
「鹿島、やれるかい!?」
「見ての通りだ、任せろ!!!」
 八坂の確認を、力の限り跳ね返す。
 もう俺は、昔の俺じゃない!!!!
 右拳を中心に、光と共に宿る力を確かに感じながら、辺りを見回す。
 ひいいいいいいぃぃぃぃぃぃんんん
 また響く、耳鳴りに近い「合図」。
「っ………!!!!」
 一瞬頭が痛くなるが、すぐそれも終わる。続いてても、痛みなど気にしていられない。
「あううううううっ!!!!!」
「いやああああああああ!!!!!」
 苦しみつつもまだ意識を失っていなかった人達が、更に苦しそうな声を上げている。
「八坂!!!!!!」
「すぐ近くにいるはずだよ!!!!!」
 単なる合図ではない。まぎれもなくこの妙な音が、同級生を襲撃者へ変えているのだ。
 音から判断しても、それほど離れた場所に、間違いなく操っている相手がいる。
「……助けて、どうなってるの……」
「頭が、頭が……」
 そんな意識の叫びは、すでに襲撃者となってしまった元級友達の叫びがかき消していく。
「きゅぉおおおおおぉぉぉ!!!!!!」
 制服姿の八代高校生達は、五分前まではカケラもない異様な雰囲気を湛えつつ、高校記録を確実に更新できそうな脚力を発揮する。
「ころろろろおろろろすうううっっ!!」
(負けられないんだ!!!!)
 右拳を握りしめる力を強めれば強めるほど、鹿島の全身駆け抜けるにさらなる力。
 右と前から飛びかかってくる元知り合い達の攻撃を、かわそうともせず逆に距離をつめる。
 見上げれば、そこに腹がある。
 足と地面を一m七十以上離すことが可能な脚力を持つものと戦う場合にのみ可能な位置関係を作り、真下から発光する右拳を突き上げて、腹部に叩き込む。それにより悶絶する元友人には目もくれない。
「どこだ、どこにいる!!!!!」
 叫びながら見回すが、一五〜六で、鹿島より一〇pほど背の低い少年はいない。
 「合図」に苦悶するか、突然のことに唖然としている同校生がいるだけだ。
「どこだ!!!!」
 叫んでも、それらしき姿は浮かばない。
「鹿島、稲穂ちゃんとこの場を離れて!!」
「嫌だ、稲穂が俺にはその程度しかできないっていうのか!? この力はその程度じゃない!! 俺だって戦えるんだ!!!」
「そうじゃないよ。この場にいる限り、僕達はみんなと戦わなきゃならないんだ!! 鹿島は稲穂ちゃんとここから離れて!! 僕はあの子を探すから!!!」
「…………!」
 指摘の正しさを、認めざるを得ない。
 信じられないことだが、この音は人の意思を侵し、操る効果がある。だから迫る敵を幾ら倒してもあまり意味はない。それどころか意識を取り戻した時には何をしていたか覚えていない人達に、こちらが一方的に傷つけた事実だけが残ってしまう。操る大元を叩かない限り、敵の数は一向に減らないのだ。
「……」
 八坂はそこまで考える。鹿島が稲穂を守ることで頭一杯のとき、何が最も有効な方法かを考えるだけの余裕が、八坂にはある。
(負けられない!!! 稲穂は俺が守るんだ!!!)
 振りかえり、鹿島は稲穂を抱き上げる。
「ふにっ………」
 突然の行動に言葉がつまり、わけのわからないことを口走る稲穂。
「走るぞ、しっかりつかまってろ!!!」
 それだけ言うと、鹿島は走り出す。
 方向はどちらでもいい。一旦こいつらとの距離を開ける。
 右手の力を全身に拡散させると、右手だけでなく全身に力が満ちる。 
 ソウダ、ニンゲントイウカラヲヌケ、ホントウノジブンヲオモイダセ
 声が、さらに力を引き出す。
(いける!!!!!)
 地面を蹴る。
「……え……え?」
 着地するまでに、稲穂がそんな声をあげた。
 あげたくなる気持ちはわかる。
 いきなり自分の視界が一瞬で切り替われば、そんなことを呟くくらいしかないだろう。
 今、稲穂は飛び越えた。奇妙な音で正気を失ってしまった同校生の頭上を、鹿島に抱き上げられたまま。
「走るぞ!!!!」
「……」
 返事を待たず、鹿島は走る。
 走る間に、抱き上げている稲穂を見る。
 恐怖のためか稲穂は目を瞑り、赤ん坊のように身体を竦めている。
 あの時は守れなかった。しかし今度こそ……今度こそ守ってみせる!!!!
 四十キロは確実にある稲穂を抱きかかえたまま、数秒で鹿島は五十m近くを走り抜けた。
「動くなよ!!!!」
 鹿島は稲穂を立たせ下ろすと、追いかけてくる元知り合い達に挑む。
 生徒用昇降口から離れ、職員用昇降口前まで稲穂は移動していた。今稲穂の背には八代高校の正門がある。こちらは駅から離れており、一部の徒歩・自転車通学者しか使用しないため、人通りはほとんどない。
「悪く思うな!!!!」
 左右から襲いかかる二人の右手に移動し、その左わき腹に右拳で一撃。殴った勢いに任せ、二mほど離れたもう一人にぶつける。
 これで、二人。だが、まだまだ敵の数は尽きない。
 ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃいいいいんん
 耳鳴りもまだまだ止みそうにない。しかし、この辺りにはそもそも人影がないので、さしあたり新手の出現は防げそうだ。
 やはり狙いは稲穂のようで、前方で八坂が打ちもらした形相の知り合いたち十名ほどが、続々と鹿島らめがけて迫る。
(本当に稲穂には手を上げないのか?)
 今回も前と同じとは限らない。
「死ねぇぇぇぇぇ!!!!!」
 形相ではあっても、裏返ってはいても、紛れもない見知った人間のものである声と表情が、明確な害意とともに自分へ向けられる。
(間違いない。操られてるだけだ)
 彼ら自身には何の罪もない。多分先日の白髪の少年や、あるいはその背後の何者かこそが、本当の倒すべき相手なのだ。
「関係あるか!!!!」
 叫びながら、新たに迫る一人を右ハイキックで意識を断ち切る。そのまま、右足を振りぬくと同時に、本来なら軸足となるだけで精一杯のはずの左足で地面を蹴る。 
 空中で身体を大きくねじり、続く通算六人目に左のソバットを叩きこんでふき飛ばし、後続を巻き込む。
 その間にも前に出る。最終防衛線は可能な限り上げておかなければならない。
(俺は、負けない)
 八坂にも、劣りはしない!!! 稲穂は俺が守る!!!
 心の中で叫びながら、さらに続き迫る六人ほどを尖鋭な眼光で射抜く。
 今も耳鳴りは続いており、向こうの昇降口のそこかしこでうずくまり、悲鳴を上げている姿がある。その数は十以上。
 もし彼らが全員同時に襲いかかってきたら、八坂は稲穂を守りきれるだろうか?
(それが八坂の限界だ)
 妙に緩慢な動作で迫る、襲撃者を見ながら考えは続く。
 確かに八坂は強い。ともすれば今の鹿島ですら敵わないほどに。だが、一斉に多くの相手が八坂以外「誰か」へ襲いかかったとき、八坂はその「誰か」を守り抜けるか?
(できはしない。できなかった)
 前回六人を相手に、八坂は「誰か」を守ることができなかった。あのとき鹿島が動かなかったら、稲穂はどうなっていたかわからない。
(俺は違う)
 俺なら真正面から倒せる。稲穂に指一本触れさせはしない!!!!
 ソウダ、ミセテヤレ
 自分の中で、「誰か」がさらに煽る。
 オマエノホントウノチカラヲ、アノムスメニフサワシイノハダレカ、ミセツケテヤレ
 自分の右拳の力をさらに増幅する。
「くらえぇぇぇぇぇっっっっ!!!!」
 そのまま、右手を開きながら突き出す。
 あまりにも鋭い、白。
 ――――白――――
 だが、それが鹿島の網膜を焼くことはない。
 鹿島の一部が鹿島を焼くことはない。炎が炎を熱いとは感じないように。
 そして色彩が回復したとき、前方には鹿島の意図通りの光景が繰り広げられていた。今の今まで二人に迫ってきていた高校生達が、鹿島たちに手を伸ばして倒れている。砂漠で行き倒れた人間さながらに。
 そして、さっきまで鳴り響いていた耳鳴りも、もう完全に収まっていた。
(これが、本当の俺の力……)
 ソウダ、コレガオマエノチカラダ
(八坂も超える………)
 ニンゲンナドヒカクニナルマイ
(これが…………)
「みんな………」
 振りかえると、そこには稲穂がいる。
 自分が守った稲穂が。
 必死に恐怖を抑えこもうとする稲穂が。
「みんな……死ん……じゃったの?」
 声が震えている。
「大丈夫、威力は加減……」
「あ…………」
 稲穂の顔が輝いた。慌てて振り返ると、もう誰か一人が立ち上がろうとしている。まだ完全な姿勢を取り戻していない状態でも、相当の長身だと伺える「誰か」が、頭を振りながらたち上がろうとしている。
(まずったな……)
 威力は加減したつもりだが、迫る襲撃者達に意識が集中しすぎ、その中にいる長身の幼馴染の存在まで気が回らなかった。それでももうたち上がることができるのは、幼馴染たる「彼」なればこそだろう。他は完全に気絶して、動くことすらできずにいるのだ。
(これからは、気をつけないとな)
 カゲンガスギタヨウダナ コンドコソゼンリョクデウチコンデヤレ
 「誰か」がまた言った。
(何を言っているんだ? あれは―――)
 オマエカラスベテヲウバウオトコダ
 その言葉が掘り起こす。子供の頃から何をやっても足元どころか足跡にさえ及ばなかったという記憶を。
(そう、あれは俺から全てを奪った)
 かつて全てとすら言っていい女性を、自分の前から奪い去っていった。
 アノオトコハ、オマエガナニヨリネガウモノヲウバイサル
 「かつて」も、そして「今」も。
 オモイダセアノトキノクツジョクヲ
(嫌だ!!!! あんな惨めな、悔しい思いはもう沢山だ!!!!)
 ゆっくりと長身の若者は立ち上がり、こちらに向かって歩いてくる。
 ミロ、ヤツハマタウバッテイク
 ゆっくりとこちらに近づいてくる親友。
 オマエガアイシタオンナヲ、ココロマデカンゼンニウバッタオトコダ
 近づかせたら敵わない。何一つ及ばない。
「くるなあっ!!!!!!」
 耳鳴りが収まり、平穏を取り戻したかに思われた職員用昇降口前を、再び異常な緊張感が鷲づかみにする。一人のどこにでもいそうな少年が、目に見えるほど空気を振るわせる。
「畜生っ!!!!!!」
 このまま奴を進ませてはならない。進ませたら「また」奪われる。すぐ後ろにいる、自分が愛した女を、「また」あの男に。
 ソウダ、ヤツヲコロセ!!!! テオクレニナルマエニ、コロセ!!!!
「うおおおおおおおおお!!!!!」
 力が、絶叫を増幅させる。
 
 ほえ猛る親友の声が、八坂の頬を叩く。
(なんなんだ、僕はまだ気絶しているのか?)
 あまりのことに、八坂は自問するしかない。撃ち漏らした襲撃者達を掃討するため、鹿島たちの元へかけつけようとした八坂は、鹿島の放った特殊な攻撃を食らって気絶した。
 だが、直前咄嗟に伏せたのが功を奏したのか気絶は一瞬ですんだ。立ち上がって鹿島と稲穂が無事であることを認識しつつ近寄ろうとすると、鹿島が自分に殺意を向けている。なぜ、こんなことになったのか。
「どうしたんだい、か――――」
「るなぁぁぁっ!!!!」
 絶叫、そして、
(逃げろ!!!!)
 身体に命じた直後、レーザーのような光が突き抜けたとき、八坂は〇・〇八秒前まで自分の頭がいた空間から五m離れていた。八坂以外の人間なら、直撃して確実に殺されていただろう光の槍は鹿島の右手から打ち出された。真昼でもはっきり発光しているとわかる鹿島の右掌から。
(鹿島も操られてる?)
 直感的に思いつく。顔見知りが襲撃者に変化していく現場は、今目の当たりにした。鹿島や自分だけが例外でいられる理由はない。
(そういう、ことか)
 それ以外何がありえるだろう。鹿島が八坂に殺意を叩きつけ、殺そうとする理由など。
 そう納得して見る鹿島は、今も気絶している皆と同じ気配を放っている。
(あれは鹿島じゃない)
 他のみんなと同じで、誰かに操られている。ならば、八坂がすべきことは一つ。
「ごめんよ」
 痛みを感じさせないとはいえ、親友に手を上げることを、最も手短に謝罪する。
「止めろ、くるなっ!!!!!」
 また絶叫、そして光。
 その攻撃を八坂は難なくかわす。攻撃が放たれるのを見てからではさすがに無理だが、鹿島が攻撃を打ち出す動作も含めれば、そう特別速い速度ではない。そんなことがいえるのは、八坂だけだろう。
 移動が早ければ鹿島は標準を動かすし、遅ければ攻撃は直撃する。鹿島が方向修正できなくなる瞬間を、八坂は確実に見切っているのだ。当たれば即死という状況で完璧に。
 ゆっくりと、八坂は歩を進める。
 鹿島まで五m。次の攻撃をかわして、一撃。痛みを感じさせず一瞬で意識を断ちきる。
 それしか方法はない。そう頭でわかっていてもなお辛い。長年同じ時を過ごしてきた友に手(実際は足)をあげるというのは。

「止めろ!!! そんな顔を、目を俺に向けるなぁっ!!!」
 不思議な遠距離攻撃手段を手に入れた鹿島は、心を引き裂かんばかりに叫ぶ。
 「かつて」も、そうだった。「かつて」も親友だった二人は、一つしかないものを求め、一方がそれを手に入れ、一方はそれを失った。
 目の前の長身の若者は、その時と同じ表情を自分に向けている。あまりにも哀しい、それでもそうするしかないという、悲壮な目を。
 そうして、「また」全てを奪っていくのだ。後ろにいる女性を奪っていくのだ。今目の前に立つ、長身優美なこの神は。
「嫌だ!!!!!!」
 力がさらに集中する。
 絶対に嫌だ。稲穂は俺が守るんだ!!!!
 ソウダ、オマエノモノダ!!!!
 誰かが、また煽る。
 ウバウヤツハ、コロセ!!!!!
「くらえええええええっっっ!!!!」
 さらに力が吼え、空気が震える。

(どうなってるの?)
 一連の戦いを稲穂は理解できなかった。
 鹿島がなぜ八坂に攻撃しているのか。なぜ鹿島が鹿島に見えないのか。
 子供のころから何度と見た鹿島の後姿が、別のもののように思えてならない。すぐ近くで、その声を聞いてもなお思ってしまう。
(この人は誰?)
 鹿島が妙な閃光を放つつど、稲穂の中でも妙な変化が起こっていた。
 稲穂の記憶から「鹿島」という名前が薄くなり、別の名前に書き換えられてしまう。
 自分の中の「誰か」が、鹿島を自分が遥か昔会ったことのある「誰か」の名前に変える。
「これで終わりだ!!!!」
 背中ごしにその言葉が、とてつもなく不吉な言葉のように稲穂には聞こえた。単に鹿島が八坂を攻撃するというだけでも不吉過ぎる状況だが、それ以上にその言葉には象徴的な意味があるように思えた。自分達が終わってしまうかのような不吉な意味が。
 今まさに、鹿島に似た姿の「誰か」が、右手を突き出して傷つけようとしている。
 八坂に似た姿の、「誰か」を。「誰か」、かつて自分が愛した男を。
「消えてなくなれ!!!!!!」
 明確な殺意をと共に、攻撃を放とうとする。
「止めて、八坂君がしんじゃうよ!! 鹿島君、元に戻って!!!」
 その背中にしがみつき、叫ぶ。しがみついた背中が、びくりと動く。
 その瞬間、稲穂は理解した。鹿島が鹿島に戻った、と。

(鹿島、ごめん!)
 もう一度謝って行動に移ろうとしたときだった。今まで異様な気配を放っていた鹿島がいきなりその殺気を消して叫ぶ。
「逃げろ、八坂!!!!」
 その直後風を切り裂く音がして、辺り一面を突風のようなものが吹き抜けた。
「うわっ……た」
 一気に鹿島を気絶させるはずだった八坂は、肩透かしを食らって、二歩よろめいた。
「……鹿島、大丈夫かい??」
 体勢を立て直し、八坂は尋ねる。
「………すまない、八坂。お前も敵のように見えたんだ」
 言う鹿島から、もうさっきの異様な気配は感じられない。
「今はどうだい? 頭が痛いとかは?」
「……なんともない、大丈夫だ」
「そう。それはよかった」
 少しだけ笑いながら、八坂は鹿島と、その背中にしがみついている稲穂を見る。いまだ鹿島の背中に抱き着いていて、鹿島の右肩から、頭半分を覗かせてこちらを見る稲穂を、暖かく見守る。
(ま、いいけどね)
 せっかく口実ができたのだ。好きなだけ飽きるまで心ゆくまでくっついていればいい。
(けど、操られかけてた割には、鹿島は稲穂ちゃんを狙わなかったよなあ)
 自分に襲いかかってきたのは、たまたま自分の近くにいた者だ。他は皆稲穂を狙っていたのとは、行動が決定的に異なっている。
(ま、それは今口にすることじゃないか)
 今ただ疑問に感じたことだけを口にしても、不満が募るだけだ。疑問や鹿島にしがみついている稲穂や、稲穂にしがみつかれている鹿島は置いておくとして、自分は事後処理にかかろう。
「先生、人を集めてください。今学校にいる人は全員です。倒れている人や、頭が痛い人は保健室に。大丈夫な人には、僕から事情を説明しますから」
「あ、ああ………」
 右手にある昇降口から、一連の出来事を見ているしかなかった五十過ぎと思しき男性教師は、意識をおかされはしなかったようだが、今目前で起こったことを現実として認識しているかどうかすら怪しい。彼が今この場で「大人」として立ち回ってくれないことをこれでもかと証明している。
「鹿島はその辺で倒れている皆を頼むよ。大丈夫な人にも手伝ってもらって、気絶している人や頭が痛い人は保健室へ。大丈夫な人もどこかでまたせておいて、帰らせないようにしてくれるかい?」
「わかった」
「じゃあ、僕は先生を呼んでくるから……」
 八坂の視界が一瞬で黒に染まる。
(な――――――――)
 単に視界がないということではない。音も、臭いもその他の全てが、急速にくらむ。
「八坂君????」
「どうしたんだ、八坂???」
 自分を気遣う声が、はるか遠くからかけられている。微かに残る皮膚感覚は、今自分が片膝をついていると告げている。
(なんとか立たないと……)
 全身に命令する。特に鹿島は、自分を間違えて攻撃してしまったことを気にかけているだろう。今倒れるわけにはいかない。
 だが、それを圧して、「誰か」が自分の中で膨れ上がっていく。
 ―――視界が、回復した。
 今見える光景は、視界が失われる前と何も変わっていない。気を失いかけたのは、ほんのごく短時間で済んだようだ。
「大丈夫か、八坂?」
「八坂君、大丈夫?」
 傍らから、二人の幼馴染の声がかかる。
(大丈夫だよ。けど一応僕も病院にいっておいたほうがいいかもしれないね)
 そう言おうとしたが、言えなかった。その代わりに、別のことを言う。
「……見つけた」
 感極まった自分の声で、自分が考えてもいないことを自分が口にする。
(え!!??)
 そして、自分の身体が、自分の考えていないように動く。膝をついていた姿勢から立ち上がった八坂の身体は、傍らから声をかけていてくれた異性の幼馴染と向き合った。
 自分の身体が、自分の意思を離れて動く。今朝も見た夢と同じように。
「……見つけた」
 わななく八坂の声で、それだけを言う。
(何をしてる、止めるんだ!!!!)
 これから、自分の身体を乗っ取った何者かのすることが分かった。だから、あらん限りに叫び、念じて抵抗するが、自分の身体の動きを掣肘できない。
 彼女の両肩に自分の両手を置き、一気に自分の胸の中に引き寄せる。
 もう、彼女の名前すらわからなくない。
 八坂の記憶が、「誰か」の記憶に圧倒される。
「え……ちょ、や―――」
 そして、何かをいおうとしていたその唇に八坂は自分の唇を当てて塞いだ。
「――――――!!!!!」
 彼女は一度目を見開いてびくりと動いた後、ぐったりと力を抜いた。
 抵抗を諦めたからではない。全てを八坂の身体を動かす誰かに委ねたからだ。
「もう、離さない………」
「はい、スサノオ様……」
 一旦唇を離し、みつめあって言葉を交わした後、もう一度唇を合わせようとする。
(違う!!! 僕はスサノオなんかじゃない。天原八坂だ。出ていけ、この身体は僕のものだ。君のものじゃない!!!!!!)
 「スサノオ」と違う名前で呼ばれたことにより、強く「天原八坂」という自分を意識することができた。
 そのままありったけの力を振り絞って「外」に出ようとすると、それができた。
 今まで暗闇の中に押し込められていた五感が一気に回復する。同時に、今まで自分の身体を乗っ取っていた「誰か」を中に押しこめることにも成功したと直感した。
 そして、今し方自分を「スサノオ」と呼んだ、「稲穂の姿をした誰か」を見据える。
「どうし……て……え、私……?」
 稲穂も稲穂に戻った。今の言葉、「どうし……」までは「稲穂の姿をした誰か」の言葉で、「て…」より後はなぜ自分がこんなことをしたか理解できない「稲穂」の言葉だ。
「……私……なんで、あんなこと……」
「ごめん………」
 誰もが言葉を失った。言えば言うだけ混乱を深めるだけだと、わかっているからだ。

 だが、その沈黙を一人が破る。内容は何でもいい。とにかくこの辛さを外へ吐き出さなければいずれ破裂してしまう。そんな緊急避難に近い衝動にかられ、鹿島は口を開く。
「……八坂、お前も一応保健室いっとけよ、俺の攻撃食らってたんだからな」
「鹿島………」
「待って、鹿島君………」
「稲穂は八坂につきそってやってくれ。また倒れられたら大変だからな」
「っ……」
 また八坂は膝をつく。こんな八坂はいつ以来だろう。
「八坂君、大丈夫?」
 その八坂に、稲穂が心配そうな声をかける。
 稲穂、お前もそのほうがいいんだろ。
 もうそういうことすら辛い。 
 辛さを、鹿島は全く無関係なアスファルトを力の限り踏みつけて走ることで紛らわせた。
「鹿島君」
 微かに聞こえた稲穂のかすれる声は、確かに聞こえた。だから聞きたくなかった。
 そのあと、鹿島は一体何をして、どこをどう走り歩いたのか、ほとんど覚えはない。ただ、とにかく少しでもあの場所から離れたくて歩いていたら、気がついたときには黒い壁にぶつかっていた。実際ぶつかってから、鹿島はようやくそのことに気がついた。
(……壁、じゃないか)
 少し離れてみてみると、壁だと思っていたものは学生服の布地だった。 
 とりあえず学校の敷地は出て、呆然と歩いている間に、横断歩道で信号待ちをしている学生服の彼にぶつかってしまったらしい。
(よく車にひかれなかったな)
 既に空は茜色から紺色に変わりつつある時間だ。多分、今は六時くらいだろう。二時間近くよく無事だったものだ。
 現状の認識に成功すると、鹿島は何も言わず再び歩き出そうとする。
「おい、ちょっと待て!!!」
 自分の腕が誰かにつかまれた。
 さっきぶつかった学生服の高校生が、自分の右腕をつかんでいる。
 見れば柔道でもやっているのか、がっしりとした体つきと顔つきの男子高校生だ。
「ぶつかっといて一言もなしか!?」
 そのくらいで怒鳴るのもどうかと思うが、確かにぶつかったのは鹿島が悪い。
「……すいません」
「なんだその言い方はよ!?」
 抜け殻の鹿島から放たれた言葉には、謝意以前に意思や感情そのものがなかった。
「どう、謝ればいい?」
「てめえ……」
 結構本気で尋ねる鹿島の言葉に、彼の怒りはいよいよ加速する。鹿島の胸倉をつかみ上げ、右手を振りかぶる。
(殴られれば、少しは気が紛れるか……)
 右手の力を出せば、と考える気にもなれない。痛みを感じて現実から目を背けられるならそうしたい。
(やれよ……)
 右手が顔面に迫る。
「止めろ!!!」
 声がして、鹿島はがくんとゆれた。それすら億劫を感じつつ目を開けると、むなぐらをつかんだ彼が、もう一人の同じ学生服に腕をつかまれている。
「何すんだ、離せよ!!!」
「止めろ、そいつはあの天原の連れだ。下手なことしたら殺されるぞ!!!」
「!!!!!」
 一気に、隣の彼も青ざめる。
「……まさか」
「そうだよ、俺はあの天原のオマケさ」
 自嘲に最低必要な自意識すらない言葉。 
「勘弁してくれ、悪かった!!!!」
「知らなかったんだ、許してくれ!!!」
 震える声で懇願する。ほっとけばそのうち土下座もするだろう。
(……随分大袈裟だな)
 十歳の時「政治家天原刃の孫」たる自分を誘拐にきた連中五人を叩きのめして警察に突き出して以来武勇伝もキリがない八坂は、その筋の札付きにも相当顔が売れている。
 その八坂の側にちょくちょくいる鹿島だ。誰かが顔を覚えていてもおかしくはない。
 自分への挑戦は全て受ける八坂だが、無関係な周囲に手を出す相手へは、徹底して報復する。腕一本で済めば僥倖というくらいに。その噂が誇大に広まっているようだ。
「許してくれ、勘弁してくれ!!!」
 更に二人は許しを乞うたりしているが、もうそんなことは相手にするだけ煩わしい。
「だったら、さっさと消えてくれ」
「ああ、おい、行くぞ」
 むなぐらをつかんでいた彼は、振りかえりながらなお低頭しつつ去っていった。
「『天原のつれ』、か……」
 再び茫然自失のまま歩きつつ呟く。
 そういうことだったのだ。八坂との関係でその存在を認識されている自分が八坂と張り合おうなど、影が本体を否定するがごとき愚行だったのだ。
「そう、だよな……」
 声からかろうじて自分とわかる呟きと共に、鹿島は歩き続ける。
 何かが、自分の身体を叩き始める。 
「……雨、か」
 見る間に雨は強くなり、周辺の道行く人は小走りになり始める。だが鹿島はゆっくりと歩く。雨の冷たさでも、身体の疲れでもなんでもいい。少しでも現実を忘れさせてくれるなら。
 そのまま、どれくらい歩いただろう。全身が、冷たいなにかに浸されているような感触がある。もう全身ずぶ濡れのようだが、そんなことは大して気にならない。
 かなり雨は激しく振っている。
「あーあ、そんなかっこうしていたら、そのうち風邪引いちゃうよ」
 背後で、声がした。
(え?)
 その声は、半月前の事件の記憶と結びついて、鹿島を振りむかさせる。
 振り向いた先には、そのまさかがいる。半月ほど前、稲穂を連れ去ろうとしていたあの白髪の少年が、あの時と同じオーバーオール姿で、両手をポケットに突っ込んだまま薄ら笑いを浮かべている。
「今あの二人は道場にいるよ。これから僕達はちょっと遊びに行くから、よかったらおいで、きっと面白いことになるからさ」
 鹿島が唖然としている間に言いたことだけ言うと、少年は消えた。その場で揺らめいて。
「おい、子供が今消えなかったか……?」
 突然消えた少年に、通行人達が呆然と呟く声が、やけに遠くを流れていく。
 行ってどうなる? どれだけ奮戦しようと、報われることは絶対にないのだ。
「八坂が、何とかするさ……」
 そして、また鹿島は歩き出そうとする。
 目的地は特にない。強いて言えば、意識を失って倒れた場所か。
 さっきまで自分から熱を奪っていった雨が、もうその役割を果たさない。
 稲穂達の危機をしってしまったいま、心が無為のままにいることを許さない。
「くそっ!!!!!」
 迷いを抱えたまま、鹿島は駆け出した。

 

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