たたたたたたたたたたたたた
 外では、雨が降っている。屋根に当たる音から察しても、かなりの激しく振っている。
 トタン屋根に雨がぶつかる音は、風流を通り越してかなりやかましいのだが、それに苦情をいうわけにもいかないだろう。ここは身体を動かして自己鍛錬をするための場所なのだ。ここに来る人間は、雨の音など全く気にならないくらいの物音を自分で立てるはずである。それが嫌ならさっさと自分の家に帰れ。この音はひょっとしたら建物からの意思表示かもしれない。
 今、八坂達は刃の道場にいる。
 相手が誰彼構わず操作可能とわかった以上、稲穂の側にいる人間は少ないほうがいい。同時に常に戦いを想定してある程度の空間が必要になってくる。そのための道場である。
 鹿島の例を考えれば八坂自身完全に稲穂にとって無害とはいえないが、それを言えば完全に安全な人間などどこにもいない。その辺りはどこかで割り切るしかないことだろう。
「けど、本当にいいのかい?」
 今道場の片隅に制服姿のまま膝を抱えた姿勢で座りこんでいる稲穂に確認する。
 八坂が座っている道場の片隅とは、対角線の位置になる片隅だ。八坂と近づくと、また「誰か」が出てきてしまいそうなので、できる限り距離を取りたいということだろう。
「うん、いいの。それよりもわがままいってごめんね」
「いや、気にする必要はないよ」
 当初、八坂は車か何かにのって、常に移動し続けるという方法を考えた。
 周辺の人間をほぼ無差別に操作できようと、稲穂の居場所を知られなければ襲撃のしようもないわけで、とりあえずは安全だ。そう稲穂に提案したら、柔らかく断られた。
「そんなことしても駄目。あの人達は私を、私の中の何かを追いかけてくるの。これ以上関係ない人は巻き込みたくないの。八坂君も、嫌だったら逃げていいよ。あの人達の目的は私だけだから」
 あのキスの後、漠然とながら何かを知ったらしい。稲穂は強く言い張って、無関係な周辺を巻き込むことを強く拒んだ。だから、今八坂達はこの道場にいる。
 そして、今八坂は情報収集活動をしている。 
 壁に足を伸ばしてもたれ、右手に収めた書物に印刷されている文字の羅列から。
(……この部分、かな?)
 読んでいる本のページを指でなぞる。本のタイトルは「日本の神話」。保健室に皆を連れていき、事情の説明をした後、学校の図書室で借りてきたものだ。
 あのとき「稲穂の中の誰か」は「八坂の中の誰か」を「スサノオ」と呼んでいた。
 その「スサノオ」は聞き覚えがあったので、とりあえず借りてきたのがこれである。
(神界高天原の三貴神の一柱。太陽神アマテラスオオカミの弟で、海を司る神……)
 それが「スサノオ」。自分の中にいるかも知れない「誰か」のことかもしれない情報。
(その妻がクシナダ……)
 こちらは、稲作の豊穣を司る女神。
 その二神が出会ういきさつが、八坂としては気になる。その内容はこうだ。
 ――スサノオは手のつけられない暴れもので、その乱暴に腹を立てたアマテラスオオカミは洞窟の奥にたてこもってしまった。
 結果世界は太陽を失い大混乱に陥る。だが、知恵の神の発案により、洞窟の前で大宴会を行うと、楽しそうな歓声につられてアマテラスオオカミは洞窟から顔を出す。そこを一気に洞窟から引き出し、世界は太陽を取り戻した。その責任を問われたスサノオは天界を追放された。――
 これが「天岩戸」と言われる説話だ。日本神話だと知らないまま話の筋を知っている人も多いだろう。
 そして高天原を追放されたスサノオは、放浪している間にたまたま娘をヤマタノオロチのいけにえとして差し出さなければならず悲嘆にくれる老夫婦と出会う。この話を聞いたスサノオはヤマタノオロチの退治して、クシナダと結婚した。
 ヤマタノオロチ。こちらは日本神話の中では一二を争う有名な怪物だろう。漢字にすると八俣大蛇。「頭が八つある大蛇」という意味だ。
 日本神話中屈指に有名な二つの説話は、こんなつながりがあるのである。
(あの夢の内容から考えても僕達は何らかの、相当深い形で、このスサノオやクシナダにかかわっている?)
 信じたくはないが、今までの経緯を考えれば、否応なくそう思わざるを得ない。かといって「天岩戸」などの内容を、鵜呑みにすることもできない。
(「私が倒れたことを知れば、何とか回復させようとするでしょう。ですから、外に出たら、この洞窟を壊しなさい。そうすればもうしばらく時間を稼げるはずです」、か)
 今朝見た夢の内容に登場した女性の言葉を、極めて鮮明に思い出すことができる。
 「姉」達が作り出した特殊な結界を張られた洞窟から脱出するため、「姉」を撃って瀕死に追いこみ、その力を弱めさせ脱出した。
(これが、「天岩戸」神話の実際? なら「天岩戸」伝説が下敷きになるヤマタノオロチの伝説も全くの別物で、それが僕達に深く関わっている?)
 そういうことになってしまう。普段の八坂ならまず考えない、あまりにも馬鹿げた話だ。
 八坂は小説家だからこそ、与太話と現実の間には太い線引きを行わなければならないことをよく知っている。だがここ半月の出来事は、常識では到底処理しきれない。
(だとすれば、敵はヤマタノオロチ?)
 理性はその結論を拒否する。だが、今までの現実は、それ以外の結論を拒否する。神話上の怪物でもなければ、人を無差別かつ強制的に操るような真似ができるだろうか?
 そして、最大の疑問。同時に神話上の怪物を現実とみなければならない理由。
(鹿島はどうなっているんだ?)
 自分ら三人の中で最も激しく、常識ではありえない変化を遂げた友の位置付けこそ、神話でもつかわなければ処理できない。まるで無関係でないことはもうわかっている。鹿島は自分の中の「誰か(多分スサノオ)」が知っている「誰か」だった。今は更にもう一歩先、その具体名が欲しい。
(「天岩戸」伝説に出る有名どころは、アマテラスオオカミとスサノオの他には……)
 情報を求めて、更にページをめくる。
 オモヒカネ。「岩戸の前で宴会を開き、歓声でアマテラスオオカミをおびき出す」と発案した知恵の神。
 アメノウズメ。オモヒカネ発案の宴会で、舞いを舞った技芸の女神。
 アメノタチカラオ。アマテラスオオカミが顔を見せた瞬間岩戸を開いた強力の神。
(当てはまりそうなのはいないなあ)
 夢の中の鹿島は強烈な雷光とともに、天岩戸から脱出したスサノオの前に現れた。さっきの鹿島もレーザーのような攻撃を放っていた。それを思わせる力は、この三神にはない。
(「天岩戸」には全然関係ない神かな?)
 更に、本を読み進む間にも、八坂の頭の中で気になることは無数もたげてくる。
 二度の襲撃のいい加減さも、その一つだ。
 一度目のあの日稲穂が上野にいたのは撮影のためだ。あの場所で襲うには、稲穂のスケジュールを詳細に知らなければならない。芸能人の稲穂とて、年中仕事をしているわけではない。当然一人の時もある。稲穂の身柄に用があるのなら、その時を狙えばいい。
(それに、白髪の子供は『まさかこれほどまでとはね』とかいってたよなあ)
 八坂の戦闘能力も、稲穂のスケジュールも調べられる相手だというのに、現実の行動はお粗末極まる。一度失敗して二度目となる今日の襲撃も、反省した感はなく、意味不明だった。結局稲穂の身柄強奪を含めた何かしらの成果があったようにはみえない。今日の襲撃には、一体何の意味があったのだろう。
 一度目に姿を見せた、現場指揮官らしき白髪の少年の姿すら見えなかった。稲穂の身柄に用があったのなら、あんな状況でその身柄をどう確保する気だったのか。連れ去るために車があったなら、昇降口近辺ではなく校門近辺で襲撃をしかけた方が間違いなく良かったはずだ。
(じゃあ、目的は稲穂ちゃんの身柄じゃなくて命、殺すことだった?)
 一度目から二度目までに目的が変化した、という前提で検証してみる。
(けど、それだったら。あの程度のことであきらめる必要なんてないよなあ。あのとき数を頼りに攻め続ければ、稲穂ちゃんを殺すことは間違いなくできたはずだし)
 不吉だが、それは確かな事実だ。一度目の襲撃で操られていた彼らは、意識を完全に失ってもなお動かされていた。その点から考えても、動かすのは人間でなくともいいのだろう。大量のナイフなりを投げつければそれでよかったのだ。
(他にも考え出したらキリがないくらい矛盾が多すぎるなあ。敵の目的は何だ?)
 袋小路にはまりかけたことを察して軽く頭を振り、次々と沸きあがる疑問を頭から追い払う。疑問を感じても、検証する情報がないので結局不安になるだけだ。
(……他には、何かないかな)
 八坂は再び「日本の神話」を読み進む。とはいえ、高校の図書館においてある程度のものに目新しい情報はない。既に八坂がしっているようなものばかりだ。
 近くに車の止まる音がした。続いて開き戸の開く音。そして最後に外から祖父の声。
「おう、ちょっと手伝ってくれんか」
「今行くよ」
 本を脇において、八坂が外に向かい宿泊のための道具を運び込む。とりあえず今日のところは、布団とごく簡単な着替えをだけなので、十分とせず搬入作業は終わる。
「随分面倒なことになってしまったのう」
「まあね」
 手短に答えると、まだ寝る時間ではないので布団は道場の隅に置き、再び八坂は本に目を落とす。
 八坂は道場の右手前端に前と同じ姿勢で、稲穂は奥の左端に体育座りみたいな姿勢をし、膝頭に顔の下半分程を押し付けている。
 妙に粘りつく状況と空気のなかで、八坂のページをめくる音だけがたまに聞こえる。
「ワシは戻るからな、何か必要なものがあったら連絡しとくれ」
「すいません、おじさま」
「気をつけてな、二人とも」
「来るよ!!!」
 八坂が叫ぶ。「何か」が戸を通らず、その場に突然入ってくることに対して。
「わかっとる!!!!」
 八坂が「来る」というころにはそう答え、稲穂がいる右奥隅に移動していた。
「こいつらか、八坂?」
「多分ね」
 言いながら、十五mほど向こうにある、道場出入り口辺りをにらむ。
 危険と敵意が急速に集合していく。
 ひぃぃぃぃぃん
 危険が耳鳴りとなって響き渡り、敵意が靄となり、人の形を作り出す。
 間を置かず、身長一五〇くらいの、真っ白な髪を除けばどこにでもいそうな少年が、道場の入り口辺りに出現した。VTRにでも残しておけば、百人いて百人がトリックあるいは合成というほど唐突に。
「こんにちは、四時間ぶりかな?」
「こっちも色々聞きたいことがあってね、来てくれて助かったよ」
 それぞれ口調は軽蔑と敵意に満ちており、なまじ会話として成立していることが、逆に聞くものの背筋をうそ寒くさせる。
「君は一体何で、『彼ら』に何の用かな?」
 声を低め、含みを込めていってみる。
「そこまで気づいてる? まずいなあ」
「まずいと思ったら諦めてほしいね」
「そういうわけにもいかないんだよね。元々失敗は覚悟の上だし、上手くいけば、今日で全部終わっちゃうかもしれないんだ」
「では、何用かな?」
 この状況で平静この上なく口を挟む辺りに、刃が八坂の祖父という証明が見え隠れする。
「今回は時間稼ぎかな。ゲストがここにくるまで、少しだけ付き合ってほしいんだ」
「ようやく自分が前線に出てくる気になったのかい? そこだけは評価してあげるよ」
「まさか、今回の相手はこいつらさ」
 少年が、二度手を叩いた。ただ、手と音が一拍ずれている。以前の耳鳴りにせよ拍手にせよ、動作自体に意味はないのだろう。今ははっきりわかる、音は少年の身体全体から発されているのだ。
 音が鳴る。少年の輪郭はぼやけ、周辺に微か生み出す。罪人を焼く地獄の炎が生み出すにも似た陽炎を。
 何かが、かたどられていく。
 トラかライオンのような獣が八匹、靄>影>絵の段階を経て、少年の周囲に実体化する。
「これが何かわかる?」
「……ライジュウ、かな?」
 自分の中の「誰か」の記憶がそう言っている。薄汚れた黄色の毛皮を持つ生き物を、「誰か」は確かに見たことがある。
「だいぶ色々と思い出してきたみたいだね。いよいよ急がないとまずいなあ」
「…………」
「ま、ゲストが来るまでここで待っててよ。すぐくると思うからさ」 
 指を鳴らす音をうけて、獣が一匹づつ八坂と刃に飛びかかる。
 その獣に八坂は「日本の神話」を投げつけるが、特に、燃えたり蒸発したりはしない。
 「誰か」が持つ「ライジュウ」の知識にはあるはずの能力が、この獣にはない。
 この獣には、発揮させれば八坂すら逃げ回るしかない能力がある。しかし出してない。どうやら本当に時間稼ぎということだ。この場から八坂と稲穂を出したくはないが、強いて殺す気もないらしい。
(それなら一層「ゲスト」とやらが来る前に片付けないとまずいな)
 刹那にそれらの分析を終了し、本が床に落ちるより速く八坂は動く。
 野球マンガでしばしば不必要なまでに足を上げるピッチャーさながらの姿勢。
 ライジュウにぶつかった「日本の神話」が床に落ちる音は、八坂の踵落しが直撃する音にかき消される。日本人の平均より長い脚は、一九〇超える自分に覆い被さるようにとびかかってきたライジュウの顔面を捉え、そのまま床にねじ伏せた。
 斧のような踵に頭をつぶされたライジュウは、出現したときと正反対のルートを辿って消滅し、少年の脇にまた一匹が出現する。
「時間稼ぎなんだからさ、そんな熱くなる必要はないんじゃない? あんまり飛ばすと、真打ちがくる前に疲れちゃうよ」
 問答無用の一撃で、ライジュウを倒した八坂を少年が揶揄する。
「そうだぞ、お前は余計な力が入りすぎじゃ。もっと相手の力の流れを読まんかい」
 刃が、少年に続く。ライジュウの上二m、足元から四m離れて言う。
 襲いかかってきたライジュウを真上に飛び上ってかわし、拳の背で軽くその額を一撃。
 子供のいたずらでもしかるように軽い一撃。それだけで、八坂と同じ現実を引き出した。
「面白そうな出現方法じゃったから、攻撃方法も期待したんじゃがのう」
 結構本気で残念がる刃。
「安心してよ、すぐ取っておきがくるからさ」
 無邪気な表情と悪意。一見相反する要素こそ互いを引き立てる。それを証明するかのような笑みを、少年は浮かべた。



 雨の中を鹿島は走る。ひたすらに。
「間に合ってくれ!!!!!」
 もう何度繰り返したか分からない、祈りにも似た叫び。
 鹿島が少年と遭遇した駅前から、道場の家近辺まで直線距離で約六キロを全力疾走でかけぬけていた。その速度も、尋常ではなかった。鹿島自身は気がついていないが、間違いなく一キロを二分切るペースで走っていながら、身体はほとんど疲れていない。
 しかし、そんなことは今の鹿島にとって何の意味もないことだった。
(……いってどうなる?)
 走る間に、自分が自分に問い掛けてくる。
 稲穂の心は八坂のものだ。今更駆けつけたところで、何がどうなるものではない。
 そればかりを、鹿島は考えていた。
(違う!!)
 全力で叫ぶ。歪んだ自分を否定するために。
(見返りが欲しかったんじゃない。ただ稲穂を守りたかっただけだ!!!!)
 言い聞かせようとする。「言い聞かせる」こと自体が、歪んだ自分がいることの証明だということを無視するために。
 走り通してようやく辿りついた敷地とその奥にある道場を見るまでもなく、空気で理解した。敵は道場の中にいる。
 敷地の奥、門から見てむこうに位置する道場へさらに駆け出す。その半ばまでを制覇したころ現れた。
「こいつは…………」
 色自体が汚らしい黄色い毛皮を持つ獣が八匹、鹿島を囲むように、道場から放たれる汚れた気配を凝縮して出現する。
 いつのまにか、鹿島は包囲されていた。だが、外見に驚いたその先は特にない。
(同じだ)
 放っている気配は、今日の夕方の、そして十日ほど前の清掃業者たちと変わらない。稲穂を狙う敵なら、戦うのみ。
 向こうもはっきり鹿島を敵と認識したらしい。声帯がないのか唸り声は上げないが、前足を伸ばし、さらに敵意と殺気を向ける。
 こちらも、意識を集中させ、これまでと同じように、右手に力を込める。
「行くぞっ!!!!!!!!」
 叫びとともに、広がる。
 粘つく何かが全身を満たし、力を奪う。
(な……!!?)
 ほんの数秒で意識まで朦朧とさせ、片膝をつく鹿島の頬を微かに風がなでる。
 ここしばらくは人間がやるのばかりを見ていたが、やはり四本足の獣にこそふさわしい、覆い被さるような攻撃の余波だ。
「うっ!!!!!」
 直撃だけは避けたものの、右前足の爪が頬を掠め、鮮血が舞い散り、地面に落ちる。
(どうして!!!???)
 痛みのおかげである程度鮮明になった意識は、何とかその答えを探そうとする。
 これまでと同じようにやったのに、どうして力が右手に、全身に宿らない!!!
(もう一度―――――)
 右手に力を込めようとしてみるが、次々に襲いかかってくる獣が、時間を与えない。
「うあっ!!!!」
 全身をかすめる攻撃が、集中を乱す。
「どうして出てこない!? 俺の本当の力じゃなかったのか!!!」
 気配でわかる。今、すぐ向こうの道場でも、同じようにこの獣が出現している。
 今こそ力が必要なのに、どうして!! 
 今度は、二匹同時。
「……っ!!!」
 絶叫している暇すらない。そんな事をしていたら、その間にやられてしまう。
 それでも何とか攻撃をかわしつつ、なんとか集中しようとするが、力は全く宿らない。ただ少し痺れた感覚があるだけだ。それは右手が過度の握力に出血した証なのだが、既に腕から出血しているため、今更右手の出血に気付けない。防弾防刃服も、全然役に立っていない。障子紙さながらに引き裂かれている。
「どうしてだ、畜生!!!!!」
 絶叫する間にも、獣たちは見事な連携攻撃を続け、鹿島の全身を引き裂いていく。明らかに、意識して少しづつ。
(嬲り殺しにするつもりか……)
 混乱と絶望と痛み、さらに数時間前起きた衝撃で、既にボロボロになっている心の中が出した結論。
 二匹でもさばき切れていないのだ。五匹も同時に襲いかかれば確実に仕留めることができるはずなのに、あえて獣たちは二匹か単独でしか襲いかかってこない。
 その理由など、嬲り殺し以外考えられない。
 その考えは一見正しいようで、実は非常に重要な前提を忘れている。
 まとめて五匹以上襲いかかればという以前に、「右手の力」のない鹿島は、先日敵に操られた若者の攻撃一発で行動不能になった。そんな鹿島が、どうして全身十数箇所に傷を負って、まだ立っていられるのか。
 だが、鹿島はそう考えることを嫌がった。右手の力がなければ、もうとっくの昔に立っていることもできないほど非力な自分など、考えたくなかった。
 再度鹿島の胸を獣の爪が掠め、シャツを引き裂き、胸元を赤黒く染める。だが痛みは感じない。痛みを感じる余裕が心にない。
「く………そ………」
 既に痛みだけでも飽和状態に達している感覚を、絶望感が意識を更に薄くする。
(どうして、俺はここにいる?)
 この場に来てどのくらいの時間が経ったのか、それすら怪しくなった意識の中、考える。
 今更どれだけ奮闘したとしても、傷ついても、守り抜いても、自分が得るものは何もないというのに。
(なぜ、自分はこんな目に遭っている?)
 アイツラノ、セイダ
 誰かが、そう告げる。
 オモイダセ、オマエガナゼコンナバショニイナケレバナラナイノカヲ
(あの二人が、いたから)
 アノフタリガイナケレバ、オマエハコンナコトニクルコトハナカッタ
(そう、こんなめにあうことはなかった)
 スベテハアイツラガイルタメニオコッタ
(あいつらが天界の決定に逆らわなければ、全て上手くいっていたのに)
 あるはずのない記憶が鮮明に蘇る。二度もこんな惨めな目遭わされたのは、全てあいつらのせい。思わせぶりな態度をしつづけたアノ女の、親友面しておいて、裏では自分を笑っていただろうアノ男のせい。
 ナラ、コロセ
(そう、殺せばいい)
 ソレナラ、タニンノモノニナルコトハナイ
(そう、永遠に、あいつは俺のものだ)
 コロセ
(殺してやる)
 考える間にも獣は鹿島を襲いつづけ、明らかに急所を外した攻撃を繰り返していた。
 そして、何度目かの攻撃が迫る。
(殺してやる)
 アノ男も、アノ女も、邪魔する奴も、全て。
 感情が、行く先を見つける。
 意識が研ぎ澄まさせる。心が黒くなる。
「邪魔だあっ!!!!!!!」
 獣の一匹が身投げをした。一瞬で鹿島が鹿島の形をした殺意の塊へと変じたため、そうとしか見えなくなった。
 ドス黒さが、右手に集中する。
 まばゆいのに、温もりなどは一切感じさせない光が収束し、一つの形を取る。
 たしかに手の中に存在するのに、重さは一切感じさせないそれを一気に振りぬく。
 真上から真下に、一直線。
 その通りに獣は両断された。文字通り真っ二つになった獣は煙のように溶け、消滅する。
 鹿島の手の中にあるのは、奇妙な剣。形状自体は奇妙でもなんでもない。時代劇に出てくる「刀」が存在しなかった時代の、古墳や遺跡から発掘される「剣」だ。
 日本刀のように片刃だが、「剣」らしく日本刀のように反っては全くいない。
 それは特におかしいこともない。奇妙さは長さにある。剣身だけでも二m以上、柄を合わせれば、三m近い異様な長さの剣が、青白い濁った光を帯びて、鹿島の手の中にある。
 今も全身が傷ついているはずなのに、痛みは少しもない。
「…………」
 憎悪と殺意しかない目に、道場を収める。もう、獣の存在など意識の片隅にもない。
 だが、獣のほうでは、意識の片隅からも追い出されたまま黙ってはいなかった。
 仲間を見事な「開き」にされて、残りの七匹が一斉に鹿島へ襲いかかる。
 互いが衝突することをまるで意に介さない七方向同時攻撃は、獣達が激突を考える必要のない誰かに支配されている証拠だろう。
 覆い被さるように四匹地を這うように三匹が、何もない一点めがけて迫るのを、鹿島は離れた場所からただ眺めていた。
「失せろ!!!」
 もう一度、長すぎて実戦に適しているとは思えない形状の剣を横になぎ払う。
 鹿島と獣達の距離は五m以上、この剣の長さでも、届く距離ではない。だが、獣達は両断される。
「消えてなくなれ!!!!」
 その獣達が溶けてなくなるより速く、鹿島は左掌を突き出した。
 白い波が急速膨張し、獣の残骸を飲み込む。後には、この場を白い波が覆い流した形跡は一切ない。無数の足跡の中に、この場から去るときのものが一つもないことのほうが、見るものに言葉にならない恐怖を感じさせるかもしれない。
 無意味な作業は早々に片付け、鹿島はゆっくりと道場に向けて歩き出す。
「殺してやる………」
(誰を?)
 呟いたことに、疑問を感じる。
 アノ女トアノ男ヲダ
(あの女、あの男?)
 アノ建物ノ中ニイル、八坂ト稲穂フタリヲ。
(殺してやる、八坂も稲穂も)
 俺ガ、コノ手デ。
(殺す????)
 俺が稲穂と八坂を殺す???
(何考えてるんだ、俺は???)
 おぞましい考えを捨てるために頭を振ることが、できない。
 殺せ
「な………」
 頭の中で「誰か」が言うのをうけて、鹿島の体は勝手に歩く。自分の体が自分の思うように動かない。
 そのことに今初めて気がついた。実はもっと早くからそうだったのかもしれないが、今まではそんなことを気する余裕がなかった。
「とまれっ……」
 何とか歩みを止めようとする。
<己を偽るのを止めよ>
 誰かの声が自分の中で響く。これまでの自分の奥底から聞こえてくるものとは全く別の、紛れもない他人の意思が鹿島の中から。
「誰だ………お前は………」
 中から全身に張り巡らされた拘束と消耗のため、途切れ途切れになりながら尋ねる。
<名乗るほどのものではない。もう一人のお前、とでも言っておこうか>
「なん………だと………」
 感覚で、違うと確信する。
 俺の中にいるのは、お前じゃない。
<なら、お前が望むものをお前に与えるもの、ということにしよう>
 どうでもよさそうに、「誰か」は言う。
「な…に………」
<以前お前は、あの娘を守りたいと心から望んだ。だから、その心に答えて我は力を与えた。お前が心からあの娘を殺したいと望んだから、我はお前に力を与えた>
「そ………んな…………」
 俺が心から稲穂を殺したがってる?
<だからこそ、お前があの獣に囲まれたとき、我はお前に力を貸すことができなかった。お前の本当の願いではなかったからだ>
「うそ……だ………」
 何とか否定しようとしても、できない。あのとき、確かに鹿島には、「どうせ稲穂を守ったところで、俺に振りかえることはない」という思いがあった。以前のように、心から稲穂を守りたいと思えなかった。
「違う……俺は……」
<わずかとてあの男を妬んでいないなら、あの娘が自分に振り向かないことを本当に許せるなら、お前は自由になれよう。我はお前が望むものを与えているだけなのだからな>
「…………!!!!」
 嘲笑を含んだ言葉が、鹿島を引き裂く。
<違わぬだろう? あの娘が他人のものになることを、お前は受け入れることができるか?>
「……」
 即答できないことが十分な答えだった。稲穂が自分から離れていくのを受け入れられない。自分にない全てを持つ八坂が、稲穂まで奪っていくのを妬まずにいられない。
 それらを完全に否定できるくらいなら、駅前で襲撃者の一人に撃ちのめされたとき、力を望みはしなかった。そのまま倒れて動かずにいればよかったのだ。
 力を望んだのは、稲穂を守りたかったから。 
 自分をみてほしいと願ったから。
 八坂に負けたくないと思ったから。
「違う!! こんな力は必要ない。俺は稲穂を殺したいなんて思ってない!!」
<ならば否定してみせよ。我はお前の願いを力という形に変換しているにすぎぬ。お前の願う力が強ければ強いほど、我はより強大な力をお前に与えることができるのだ>
「ぐっ!!!!」
 道場へ歩き続ける足を止めようとすると、張り巡らされた鋼線の中を歩く激痛が襲う。
<心の奥深い部分で、お前はあの娘を殺したいと願っている。お前がそう願う限り、我はその願いを達成すべく行動を続ける>
「やめ……ろぉ……っ」
 だが止まらない。道場の開き戸の前までやってきた鹿島は、右手をなぎ払った。
 一瞬光の亀裂が走り、開き戸は倒れる。
倒れた扉を踏み越え、奥へ。
 そこに、八坂と稲穂がいる。
 鹿島は知りようのないことだが、ほんの少し前、少年は「主役がきたから前座は消えるよ」といって獣と共にいなくなっていた。 
 殺すべき相手が、目の前にいる。
(違う!!!! 俺が求めるのは、そんなものじゃない!!)
<その求めるものは、もう永久にお前の手には入らないのだ>
(そう………だ、俺の手には入らない)
 声が絶望となって、鹿島の心を埋める。
<なら、殺せ>
「鹿島………」
「や……さか………」
「鹿島君!!」
「下がって、稲穂ちゃん!!!」
 全身血塗れの鹿島に驚き、近づこうとする稲穂を、八坂の声が制する。
<見ろ、あの男はまた奪っていく>
(そう、俺はまた裏切られる)
 何かを約束したわけではない。だが、裏切られたと思わなければ、心が耐えられない。
 それに、今の鹿島を見れば、誰だって近づくのは危険だと理解できる。八坂が稲穂を制したのは、そういう事情からなのだが、あまりに膨大な感情で崩壊寸前の鹿島には、それを察するゆとりさえない。
 自分に稲穂を近づけまいとしている八坂。それだけが、理解できる現実。
<殺せ!!!!>
「……止…めろっ!」
 力のない言葉を口にしながら、鹿島は地面を蹴りつけ、八坂に迫っていた。
「頼むよ!!!」
「任せい!!!」
「ふみっ」
 刃が稲穂を抱えて跳ぶ。長大な得物と、数時間前自分に放たれた飛び道具の危険性を察し、祖父に稲穂を頼みながら自分は鹿島との距離を詰める。
「うああああああっ!!!」
 どっちが攻撃者だかわかりかねる叫び。
 右肩口から左脇腹へ抜ける攻撃を、八坂はミリ単位で見切ってくる。剣が帯びた光が持つ威力まで、計算にしっかりと入れて。
 そして懐に入ってくる。一気に自分を気絶させるために。
<いいのか、またお前は失うのだぞ>
 中から、煽る。
「いやだぁぁぁっ!!!!!」
 絶叫と共に、振りぬかれた剣が今来たのと同じ経路を正確に逆行する。
「つっ!!!!!」
 バックステップした直後、剣の帯びる光が八坂の前髪を焼き、三m近い長さの得物でも届かないだけの距離が生まれた。

(僕にやれる………のか?)
 八坂以外の人間なら生まれ変わりの生まれ変わりまで予約が必要になりそうな攻撃をしのぎきり、八坂は自分に問いかける。
 生き抜いたからこそ味わう絶望と恐怖もあることを、今八坂は感じていた。
 今の攻撃をかいくぐりつつ、気絶させるだけの攻撃を撃ちこむことができるか?
 気絶させる威力と速さで、捕捉できるか?
 それほどまでに、今の鹿島の動きは鋭い。
 一挙動一投足とて見逃さないように、八坂は血まみれの親友と対峙する。

<見ろ、向こうもお前を殺す気だ>
 八坂と対峙する鹿島の頭の中で、更に煽る。
(そう、なのか、八坂……?)
 八坂自身気づいていないようだが、今確かに殺気といって差し障りないものを放っている。八坂をして無意識に殺気を放たせる。鹿島の戦闘能力はそれほどまでに高い。今紛れもなく鹿島は八坂と同じ地平にいる。絶対に敵わないと思っていた友と同じ水準にいる。
<さあ、お前の本当の力はあの男ごときが逆立ちしても敵うものではないと思い知らせてやれ。そんな自分を選ばなかった愚かさを、あの女に思い知らせてやれ>
(ち………がう………) 
<違うまい。お前が力を求めのは、あの男に負けぬ力が欲しかったためだ>
 さらに全身の管制権が、自分から自称「本当の自分」へ移る。その言葉を、否定できないために。
(でも、俺は……)
 一瞬逡巡した間に、体がまた動く。

(やるしかない!!!)
 対峙する八坂も間を詰める。
 脳天唐竹割をバックステップ。
(突き―――)
 思ったときには、躊躇もなく顔面を狙う突きを、サイドステップでかわしている。
 そして、鹿島の動きが止まる。
(よし)
 −−殺気−−
「くっ!!!!!」
 突ききった鹿島が、更に横へなぎ払う。鹿島の身体は確かに隙を残しているのに、その身体は操られているようにしっかり動く。
 無理矢理力を抜く形で屈み、八坂は剣と頭の不本意な衝突を回避させる。
(そんな!!!!)
 もう、鹿島は八坂の前まで来ていた。
 長身の八坂が屈んでいるために適切な位置へ来た鳩尾を、つま先で突き破ろうとする。
(後ろ―――――)
 八坂が、後ろへ跳ぶ。
 だん!!!!
 右足が床板を踏みしだく。
(しまった!!!!!)。
 今の攻撃は、八坂を跳せるためだった。攻撃と同方向に跳んで、衝撃を逃がすことができないようにするためのフェイントだ。
 刹那目の合った鹿島は、確かに笑っていた。
(もう一度………!!!)
 鹿島の右足が、消える。
 今度は左足の蹴りが胴を直撃し、八坂は五m以上後方の、木張りの壁に激突した。
「か………あっ……!!」
(……駄目だ、意識をしっかり持つんだ!!!)
 無理矢理もう一度床を蹴り、何とか鳩尾からは外したものの、その威力を完全に殺しきることはできなかった。気絶しかける意識を必死に叱咤して揺り起こす。
 いや、八坂だからこそ、あの一瞬でそれができたというべきか。今の五秒と満たない攻防を経て生きていられるのは、八坂でなければその祖父以外には考えられない。
 どちらにせよ、八坂の身体が受けた被害は大きい。かろうじて気絶はさけたものの、当面意思の命令を受けれなくなっている。
 
 動けない八坂を、鹿島は棒立ちのまま見つめている。
<見ろ、お前が少し真の力を出せば、人間などこの程度だ>
 頭の中で響く、勝ち誇った声。
(だ………まれ………)
<偽るな。今お前は今喜んでいる。あの男に勝てたことをな>
(どう……して…どうして!?)
 喜んでしまうのだ!? 子供のころから何をやってもまるで及ばない相手に、絶対に叶わないと思っていた分野で完勝したことを、鹿島は今確かに喜んでいる。吐き気を催す歪んだ喜悦を受け入れてしまう部分が、自分の中には確かに在る。 
<前座はここまでだ。さあ、お前を選ばなかった愚かな娘にその愚かさを思いしらせてやれ。殺すも犯すももはやお前の自由だ>
(い…………やだ………)
<無理は身体に毒だと思うがな>
 嘲笑とともに、さらなる激痛が襲う。全身が引き裂かれる。
「が………」
 眩みかける意識を何とか手繰り寄せたとき、鹿島は刃と稲穂の前に移動していた。
 目の前にいるのは、稲穂と刃。
 「誰か」は知らない「鹿島」だけ知っている刃の姿が、「鹿島」の意識を鮮明にさせる。
「先生、逃げて………速く………」
「すまんな、鹿島」
 刃は身構える。
「この場から逃げる方法は、お前を動かなくしてからしかなさそうじゃ」
 刃は、鹿島が今自分の意思によらず何かに半ばまで動かされていることを察している。
「かまい……ません……、速く、俺が残っているうちに………」
「すまんな」
 八坂のように、躊躇しないのが嬉しい。
 あらん限りの力を使って、鹿島は自分の身体が動き出してしまうのを食いとめる。
 よどんだ空気の中、刃の手が動く。一撃で自分を、あるいは永遠に沈黙させるため。
「おじさま、待って!!!」
 鹿島には正面から、刃には背後から、声。
 ゆっくりと声の主、稲穂は刃の前へ歩み出ようとする。
「下がるんじゃ」
「これは私たちの問題なんです」
「………」
 その一声で、刃の体はゆっくりと歩み出る稲穂に、道を譲った。棒立ちのままで。
 その理由は鹿島にもわかる。
 優しく、暖かい、だがそれだけではなく、侵しがたい神聖なものを今の稲穂は確かに放っている。それが人間としてはほぼ最高の戦闘能力を持っている刃にすら、有無言わさず道を譲らせた。
(稲穂……)
 欲しかった、守りたかったもの。
 三mほどで向かい合う、鹿島と稲穂。

「……鹿島君、だよね?」
 稲穂が尋ねる。刃すら容易く屈服させる気配を放ったまま、泣きそうな声で。
「………まだ……な……」
 分かる。鹿島は自分の意思に反して前へ進もうとする足を抑えつけている。
「………なら、いいよ。まだ鹿島君なら……いいよ。そうすれば、鹿島君は鹿島君でいられるんだよね?」
「な……」
「わかるの、私の中には誰かいるって……その誰かが原因だってわかるの」
 恐怖にすくむ口を懸命に動かす。
「私の中の「誰か」が死んでいれば、こんなことにはならなかったって、わかるの」
 そして何より、
「このままだと、私が私でなくなっちゃう…」
 自分の中に「誰か」がいるというより、自分が「誰か」が見る夢の登場人物。そう思わせてしまうほど巨大な存在感を、「誰か」は持っている。
 そして「誰か」は、鹿島の中にいる「誰か」の想いを感じながらも拒み、八坂の中にいる「誰か」に心を開こうとする。稲穂の心と想いは、その「誰か」にのみこまれてしまう。
「それが、それだけは絶対に嫌なの。だから、殺して。私が私のうちに」
 そうすれば、鹿島は鹿島でいられる。
 八坂は八坂でいられる。
 稲穂は稲穂のまま死ぬことができる。
 自分が自分でなくなり、全てを消されてしまうくらいなら、そのほうがずっといい。
「ごめんね…………」
 もうこの先、一緒にいることができなくて。
 だから、最後に伝えたい。
「私は―――――」

<ならば、殺させてもらおうか>
 嬉しそうな声が、鹿島の中でする。舌なめずりでもしてそうな、卑しい声。
「黙れぇっっっ!!!!!!!」
 自分の全てを燃やし尽くして、鹿島は叫ぶ。
 己の汚さを否定する。
 殺させない。
 死なせない。
 自分の多くが稲穂を殺したくても、「俺」がいる限り、絶対稲穂を殺させたりはしない。
 その方法は、今稲穂が教えてくれた。
 簡単なことだ。俺が稲穂を傷つける敵だというのなら、俺がいなくなればいい。それだけで全て終わる。
 不意に、鹿島の心が軽くなった。
 何もできなかった自分が、はじめて自分にしかできないことを、稲穂のためにしてやれる。その確信が、心を軽くさせた。
「稲穂………」
(がんばれよ。俺はここでリタイアだけど。お前達の戦いは、まだまだ続くからな)
 でも、心配はしていない。八坂なら、いつか必ずなんとかしてくれるだろう。かつて、全てを擲ってお前を助けたように。
 一瞬、空気が緩んだ。
 全身の管制権を誰かに譲り渡す。
<これで終わりだ!!>
 誰かが、心の中で勝利の叫びを上げた。
 鹿島としてではなく、完全な他人として。
 右手が剣を収めたまま振り上げられる。
(お前がな)
 意識を全て右手に集中させる。あえて管制権を譲りかすかな間にためた余力を、今全てを爆発させる。
 剣の形状が変化した。親指の方へ二m以上伸びていた剣は、閃光の後、小指の側へ、四十pほど伸びる短刀へと変わった。それを鳩尾につきたてるべく一気に振り下ろす。
<馬鹿な!!!!>
 初めて、誰かが驚きの声を上げた。
(お前の負けだ、地獄まで付き合え!!!!)
<させん!!!>
 全身の神経を踏み荒らして自殺を防ごうとするがもう遅い。全力を振り絞った鹿島の切腹は止まらない。
 光の刃が、その背に届く。
(え――――???)
 腹めがけて振り下ろしたはずの短剣が、なぜ背中に刺さる。自分ではない、誰かの背に。
「だめ、止めて!!!」 
 どうして、稲穂がここにいる!!!
 稲穂が、鹿島の胸の中にいる。
 鹿島と稲穂は二mと離れていなかった。稲穂が跳びこめない距離ではない。
 全意識を右手と自殺のために注ぎ込んでいる鹿島が、その接近を気がつけなかったとしても、おかしいことはない。
 だが、なぜ
 ――――お前が守りたいのは、俺じゃないはずだろう――――
「くっ!!!!!」
 既に稲穂の背まで三十pを切っている短剣を、無理矢理方向修正させようとする。
 びにゅっ――――
「あぅっ!!!」
 悲鳴の意味を、鹿島は理解できなかった。
 したくなかった。自分が稲穂を傷つけたなど、絶対に考えたくなかった。だが、自分の胸の中でうなだれる稲穂と、位置関係上見下ろすことになる背中の傷跡が、鹿島の精神を踏みにじる。
「稲穂!!!!」
 ど―――鼓
 くん―――動
 波涛
 稲穂の体から、力が洪水となって流れ出る。 
 その命が、心が溶け、失われていく。
「うああああああっっっっ!!!!!」
 その現実が鹿島に叫ばせた。
 稲穂から放たれる力の、自分のしてしまったことの意味を明確に理解すればなお悲痛に。
「稲穂、稲穂、しっかりしてくれ!!!!」
 もつれる形で膝を突いた鹿島は、稲穂の肩を掴み、ゆする。
 その間にも、稲穂から放たれる波涛は鹿島を突きぬけ、膨大な記憶を呼び起こしていく。
<……くっ、まさか……あそこで自ら死を選ぶ気力があるとはな……まあいい……>
 そのついでに、今まで自分の中にいた自称「本当の自分が」自分から引き剥がされ、遠くに押し流されていくのも分かった。
 だが、そんなことはどうでもいい。
 俺が、稲穂を、傷つけた!!!
 呪わしい事実を頭の中で何度も繰り返す。 
 膨大な「誰か」の記憶に「鹿島」を壊させないためには、それしかなかった。どんな呪わしいことでも、「鹿島」がしたことを意識し続けなければ、消し飛ばされてしまいそうだった。自分の中に眠る「本当の自分」に。稲穂を殺したいと願う自称「本当の自分」などではなく、かつて稲穂の中の「誰か」を愛し、応えられることのなかった自分に。
「稲穂、しっかりしてくれ!!!!」
「か……しま……くん………」
 かすっただけの傷からはとても想像できない青白い顔になった稲穂。
 その理由がわかる。稲穂が傷つけられたのは、身体ではない。その心、魂だ。
「どうして、どうしてこんなことを……」
「……もとに、戻れたんだね………」
 戻りたくなどなかった。せめて稲穂の記憶の片隅に残っていたかった。それなのに――
「ご―めん――ね――――」
 どうして謝る。なぜ罵ってくれない。
 どうしてこんなことをするのかと罵ってくれれば、いっそどれだけ楽だろう。
「よかっ…………」
 力が、抜ける――――
「嫌だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
 全てを振り絞り、引き千切って叫ぶ。
「嫌だ、目を開けてくれ、死なないでくれ、お願いだ!!! 稲穂!!!!」
「大丈夫、気を失っただけだよ。今はとにかく速く病院へ運ばないと」
 体が動くようになった八坂の声が後ろから聞こえるようなきがする。
「頼む、お願いだ目を―――」
 全てがくらむ.。
 倒れこむ自分を、稲穂ごと受け止め、抱きかかえる腕の感触だけを微か感じる。
「ごめん、鹿島」
 遠くなる意識の中で聞いた。乱暴な手段に出ざるを得なかったことへの謝罪の言葉を。

 

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