刃の車に稲穂を乗せる時滝のごとく降っていた雨は、病院につく頃には止んでいた。
 患者の心理を考慮し開放感を出すため、周辺にこの病院以上に高い建物は見当たらず、雨雲が綺麗に去った星空と、この屋上から遠くに見える市街地の夜景は中々に美しい。
 鹿島と稲穂は、近くの病院に運ばれていた。稲穂は背中の傷の手術中で、一方一つの傷だけでも稲穂より重傷だった鹿島は、こうしてこれという治療を受けず屋上にいる。
 既に傷は完全回復している。なのに今の服装が病院のパジャマなのは、血塗れの制服で病院内にいるわけにもいかないからだ。
 しばらく二人とも無言のまま適当なところを見たりしたあと、八坂が口を開く。
「ヤマタノオロチ、か。まさか本当に存在してるとは驚きだね」
 あえておどけてみる。効果がないことはわかっているが、努力だけは怠りたくない。
「さっきのあれでとりあえず封印は完全に解けた。力を回復させたら、直接稲穂を狙ってくるだろう」
 実際効果は皆無で、鹿島の声はただ重い。八坂も鹿島も、日本の神話で屈指に有名だろう、八首の巨獣をさも当然のように口にする。
 鹿島が稲穂を斬りつけたあの瞬間、彼らはこれまで夢などで断片的にしか見るだけだった情報を完全にとりもどし、かつて自分達が何者だったか完全に思い出していた。今、二人はその知識をもとに会話をしている。
「あのときも今も、俺が情けないばっかりに、稲穂を………」
「愚痴るのは後。次は間違いなく奴が直接稲穂ちゃんを狙ってくる。それに備えて、僕達が互いに持つ情報を確認することだよ」
「分かってる」
 フェンスにもたれながら鹿島。
 下では稲穂が手術中だ。本当なら手術室の前から一ミリとて離れたくない。しかしこの先も稲穂が狙われるとはっきり判明した以上、それはやらねばならないことだった。
 そして、その会話の内容は、僅かとて人の行き来がある手術室前ではとてもできない。
「まずは僕達がかつて誰だったかの確認からいこう。僕はスサノオ、鹿島はタケミカヅチだ、そっちは?」
「同じだ」
 名前以外は確認するまでもない。スサノオは海を司り、神の世界「高天原」で最高位の三貴神の一柱。タケミカヅチは三貴神ではないが、同じく「高天原」でも相当高位の貴神で、戦いと雷を司る剣神。こと戦いに関しては三貴紳と同等以上とさえいわれていた。
 その二神は、時間と空間の異なる神の世界「高天原」からこの世界「葦原中原」へとやってきた。そして、この「葦原中原」における二神こそが、鹿島と八坂である。厳密には「転生」に近い形でこの世界へやってきた彼らの魂に刻み込まれた人格が彼等だ。
「それから、クシナダもね」
 クシナダヒメ、別名イナダヒメと言われる農業神が、神代での稲穂の名前だった。
 このクシナダが、神代スサノオが命を懸け、全てに背いてまで守った恋人、そして妻。
 普段なら軽く笑い出すくらい見事同時にため息をつき、その後鹿島が口火を切る。
「今日本神話や伝説の中で悪神・妖怪扱いされている連中も、元は神だった。かつて神達はこの世界をどう治めていくかで意見が対立し、二派に分裂して激しく抗争した。やがてその形勢が次第に現高天原側に傾き始めたころ、敵の中もで特に過激な連中が、一つの生体兵器を作り出す。それが八つの頭を持つ大蛇、ヤマタノオロチだ」
「頭一つ一つが神の魂を核とし、大地と一体化して強制的にこの世界を自分達にすみよい世界に塗り替える強力な生体兵器。細菌爆弾って言えばかなり近いかな」
「そうだな。敵の中でも一部の跳ね返りが暴走気味にやったことだけあって、高天原も対応がおくれた。気がついたときには、もう大地から切り離せないところまで一体化していた。無理に破壊したりすれば、連鎖爆発して取り返しのつかないことになりかねない」
「だから高天原はある程度弱らせた上、この怪物を凍結封印する計画を立てた。スサノオの姉アマテラスオオカミを中心にね。ここまでで、何か違うことは?」
 首を横に振ってから、鹿島は続ける。
「そして封印のため、特別神霊力が高い女神を八人選ばれた。一つの頭につき一人の魂と完全に融合させ、永久に眠らせる封印だ。封印は七つまで無事完了し、残りはあと一つ。受け持ちの頭と同時に、封印全体の補強させる最後の封印だけ。その最後の封印を行う魂の持ち主が、クシナダだった」
「けど既にクシナダと想いあう仲だったスサノオは計画当初から強く反対していた。いよいよ八番目の封印が執り行われるそのとき、高天原を脱出して、既に七つの封印で弱っていた最後の首を自力で倒し、その場に擬似的な封印を施したってわけだね」
 このとき八坂が夢で見たように、スサノオは、高天原の支配者ではなく、姉として弟を思うアマテラスオオカミが作り出した夜陰に乗じて高天原を脱出した。
 日本神話ではスサノオの乱暴狼藉に原を据えかねて洞窟に立てこもったアマテラスオオカミを引き出すため、神々は宴会を催したことになっている。だが実際には洞窟から助け出されたアマテラスオオカミを総がかりで治療していた儀式の現場である。
 こうしてスサノオは封印されかかっているクシナダ元へ駆けつけ救い出し、ヤマタノオロチ最後の一首を倒した。その名はシダイ。スサノオに封印された最後の一首。それが一連の、そして神代からの敵の名前。
「あのとき、俺が協力していれば……」
 クシナダを助け出したままシダイを放っておいたら、そのうち力を取り戻してしまう。そこでスサノオは、親友のタケミカヅチに助力を頼み、自力で封印をかけることにした。天界最高三貴神の一神であるスサノオと、三貴神にも匹敵する力の持つタケミカヅチの封印は、長くシダイを封印するはずだった。 
「それなのに、俺は、その頼みを断った……」
 死人ですらもう少し抑揚豊ではないか、と思えるほど張りのない声。
 タケミカヅチは、スサノオの願いを断った。自分を選ばなかった女神を助けることへのわがだまりを捨てきることができなかった。結局シダイへの封印は、クシナダを助けた直後に、満身創痍のスサノオがかけたものだけにとどまった。
「そんなスサノオ一人の封印でも効果はあるように見えた。既に、他の七首が完全に凍結封印されているから、最後の一首だけなら、スサノオの封印でも十分に見えた。けど、それは奴が自分でおとなしくしていたからだった。ほんの少しづつだけど、確かに封印は解けていったんだ」
「封印が不完全だからって、下手に暴れれば、七つの封印になった女神の家族とかが、スサノオの目を盗んでクシナダ誘拐し、完全な封印をかけようとするかもしれない。そう分かっていたから、ずっと奴もあえておとなしくしていたんだろうな」
「そうだね。こうして長い時間が過ぎても微動だにしないから、高天原もヤマタノオロチはシダイも含めて完全に封印されたと見なした。アマテラスオオカミの孫がこの国に降り立ったのとあわせ、この世界を切り離し、高天原は表立ってこの世界に干渉することを止めた」
 鹿島が今言ったのは、いわゆる「天孫降臨」という出来事で、そのアマテラスオオカミの孫が現在の天皇家の始祖だ、と「古事記」「日本書紀」などは語っている。
 以後神々は宣託や動物を介した形での登場が大半になる。元々日本の神は、役目が終われば引退する傾向が強い。「天孫降臨」で国作りに一区切りつくと、高天原はこの世界への干渉を控えるようになった。
「それでも奴はおとなしくしてた。高天原は手出ししないんであって、できないわけじゃないからね。復活は高天原を出し抜いて、八首が完全である必要があったんだ」
「だから奴は完全に封印されているように見せかけて、少しづつ力を蓄えた。この世界から切り離された高天原に住むクシナダを一気に召喚して殺し、その魂を逆利用して自分以下八首を復活させようとした。クシナダは自分の分担以外に、他の封印を補強・増幅させて永久のものにする役目も含まれてたからな。クシナダの魂なら、逆に利用して八首完全復活も可能なんだ」
 ヤマタノオロチの説話で、クシナダらヤマタノオロチに捧げられる八人は、姉妹神ということになっている。そして八坂の夢の中でアマテラスオオカミが「彼女だけは代替が効かない」といったのはそのためだ。
「奴は少しづつ蓄えた力で、時間と空間を超える高天原からクシナダを一気にこの世界へ呼び出すことに成功した。ただ、その中には誤算もあった。クシナダを召喚する時、その側に俺がいたことだ」
 果てしなく重い口調で、鹿島。
「クシナダはスサノオに救出されてめでたしめでたし、にはならなかった。封印に命を捧げた女神の家族や、ヤマタノオロチを警戒する神々は、隙あらばクシナダを誘拐して封印に使ってしまおうとしている。それに対抗するためスサノオは葦原中国に八重の城壁を持つ要塞まで建造して、高天原の一部とスサノオ一門で全面衝突直前までいってるよ」
 相変わらず、八坂はスサノオのことを、他人のことのように話す。
 だが、破局はアマテラスオオカミ自身が調停に入ることで回避され、双方が多少譲歩する形で決着した。
 その後、神の基準でも短くない時間が流れて互いの緊張も少しづつ緩和していった。
 そんな中で、タケミカヅチも永い時間をかけて己の心に決着をつける。緊張緩和に伴い、互いを訪問してかつての友誼を暖めなおす場を持てるようになった。
「そんなある時、事件は起きる。知ってか知らずか、俺とスサノオがいるとき、奴はクシナダを召還しようとした。クシナダを助け出そうとしたその俺まで召還しちまった。それが誤算だ」
 その瞬間の光景は、はっきり思い出せる。
 三人を含めた数名で談笑しているとき、突如クシナダの周辺に出現した黒い空間。
 そして、その中に飲み込まれるクシナダを助け出そうと飛び込むタケミカヅチ。だが、クシナダを助けることはできず、彼自身も黒い空間にのみこまれてしまった。
 一瞬のことに動けなかったスサノオは、残留した力を解析してクシナダが召喚された時代と場所を特定し、姉に頼んで全ての記憶と力を封印した自分を己葦原中原に転送させた。
 スサノオほどの大神がそのまま時空を超えるには莫大なエネルギーが必要で、そんなことをしたら周辺にも必ず気付かれてしまうだろう。そして、その経緯が公になれば、アマテラスオオカミも高天原の支配者としてヤマタノオロチの危険性を認め、決断せざるを得ない。クシナダを捜索し、発見後にはその魂を封印に使用する、と。
 だからスサノオは全てを封印し必要なエネルギーを限界まで抑え、葦原中国へ飛んだ。あらゆる危険と矛盾に目を瞑って。
「ともかく、とっさにとったタケミカヅチの行動は、シダイに二つの誤算をもたらした。
まず、俺まで召還したせいで、奴はクシナダを見失ったことだ」
 余計な乱入者により召還のエネルギーが倍になり、高天原を警戒して必要以上の力を蓄えることもできなかったシダイは召喚途中で力尽き、クシナダ達を見失った。
 時空の狭間で潮流に翻弄されながら、タケミカヅチは己の力を振り絞って、気絶したクシナダともどもこの時代に出現し、己の記憶も力も全て封印した上で出産間近の赤ん坊に入りこんだ。いわゆる転生である。
 あえて記憶と力を封印したのは、スサノオがそうしたのとほぼ同じ理由からだ。
 敵に回したら厄介なのはシダイよりも一層強大な高天原と判断した。タケミカヅチはスサノオがシダイより先に自分達を探し出してくれる可能性にかけた。そうして力を封じたクシナダとタケミカヅチが眠りについた赤ん坊が、鹿島であり稲穂だった。
「以後、奴は必死になって捜した。いつまで高天原に隠しおおせるかは知れたものじゃなかったからな。けど、ようやく見つけたら見つけたで、更に重大な問題があった」
「封印の解除は、クシナダの魂の持ち主を、ただ死なせればいいわけじゃないんだよね。封印と同じで、高度な霊力を持つものが、その魂を完全解除のために使用しなければならなかった。自分以外の他の七首まで復活するなら間違いなく一層巨大な力が必要になる。ここまでで違いはあるかい?」
「俺が思い出したことと、違いはないな」
 これから最も辛い事実へと話は進む。それを覚悟しているため、二人の、特に鹿島の声は鉛製ではないとかと思うほど重く、鈍い。
「今の奴では、稲穂を殺すことはできても、完全復活をするまではできない。それじゃあ殺す意味がない。だからってクシナダの魂を利用するだけの力が再び得られるまで待ったら、稲穂が寿命で死んじまう。そしたらクシナダやタケミカヅチの力が解放されて結局高天原に見つかるか、上手い方法を見つけて自力で高天原に帰るかするだろう」
 だからなんとか稲穂という人格がクシナダの魂を覆っているうちに、稲穂ごとクシナダを殺して完全復活しなければならない。しかし今のこの世界に、クシナダの魂を完全復活に使用できる力の持ち主などいるはずない。
「事実上奴の企みは、俺をクシナダと一緒に召喚した時点で潰れていたはずなんだ……」
 再び鹿島は黙り込む。事実という重圧に備えるため、組む腕をより強くつかむ。
「……奴自身、万策尽きたと思っただろう。けど、一つだけ方法があった。俺を操り、部分的にタケミカヅチの力を覚醒させて稲穂を殺す。それが奴に残された最後の手段だ。三度の襲撃は俺に力を求めさせ、使わせ、精神をすり減らして、奴が俺の意思を無視して操れる下地を作るためだったんだ」
「だったら、悪いのはシダイじゃないか。鹿島が気にやむ必要なんてないよ」
 不用意にそんなことを言おうものなら、どれだけ鹿島を傷つけるかわからない。そう分かるから、八坂は黙るしかない。
「八坂、俺はお前に嫉妬してた。何でもできるお前は、俺の誇りと同時に、絶対超えられない壁だった。上野の駅前で叩きのめされたとき、奴に言われたよ。{あの娘を守りたいか、あの男に負けない力がほしいか}ってな」
 何か、こもった音がする。鹿島が、歯を噛み砕かんばかりに食いしばったのだろう。
「襲撃があって、この力を奴の手引きで使えば使うほど、俺と奴の意識は混ざっていった。更にクシナダに振られたタケミカヅチの記憶をチラつかせて俺を追い詰めていった」
 さらに、八坂の予想外の部分的な覚醒、稲穂との抱擁とキスでさらに加速し、道場で獣による襲撃を受けたとき、鹿島の感情と力は既に半ば以上奴の管制下に入っていた。
「元々お前を妬んでいた俺だ。一旦奴の言葉に引っかかれば、飲み込まれるまではあっという間だったよ。封印がとかれ俺から出ていく時、奴は笑ってた。『思った以上に速かった。礼を言う』ってな」
 鹿島の形をした自嘲が、そこにいる。
 本来稲穂の傷は、手術するほどではない。今では完全に直ってしまったが、さっきまでの鹿島のほうが、数段重傷を負っていた。今の稲穂は、魂を削り取られたことで倒れ、苦しんでいる。鹿島が自殺のために振り下ろした光の短刀にも、稲穂の魂を吸収する効果が残っていて、シダイはほんの少しだけ稲穂の魂を吸収使用することに成功した。
 そのクシナダの魂で、シダイは己にかかっていた封印完全解除に成功している。
「他に、何か鹿島が思い出せることは?」
「……まあ、そんなところだ」
「違うところはないみたいだね」
「ああ」
 夜と言えない八時過ぎ。近く遠くを走る車や電車の音が、屋上の二人の間を駆け巡る。
「……もうスサノオの封印自体は完全に解けた。奴個体としての力が戻り次第、直接稲穂を狙ってくるだろう。その次に稲穂を狙ってきたところで、奴を倒す。それでこれまでの全てを決着させる」
 その鹿島の言葉にあまりにも悲壮な、不吉なものを感じて八坂は口を開く。言っておきたいことがある。そう遠くない未来ともいえない近未来にあるだろう、決戦の前に。
「鹿島、君は――――」
「おい、手術が終わったぞ」
 ドアの開く音と同時に別の声が割り込んできて、八坂の言葉を遮った。その声の主は、八坂の祖父、刃。
「あ、はい。いくぞ、八坂」
「………そう、だね」



 稲穂は個人病室を用意され、殺風景な病室の調度性などまるでないパイプベッドに横たわっていた。手術直後にもかかわらず稲穂の呼吸は乱れていないが、肌という肌が蒼白のため、何の気休めにもならない。
「何かありましたら、そこのボタンを」
 医師は血塗れでやってきた鹿島が、稲穂の怪我にどう関わっているかについては全く言及しなかった。刃からの口止めでもかかっているのだろう。
 ドアノブが回り、扉が開いて、閉じる。
 八坂はドアのすぐ脇にある長いすに座り、鹿島は稲穂のベッドの前で、背もたれのない椅子に座る。
「そういえば何も食べてなかったね」
「そういえばそうだったな」
「何か買ってくるよ。何がいい?」
「何でもいい」
「そういうこと言うと、{スタミナトウガラシしょうゆマヨネーズ}とか妙なおにぎり買ってくるよ」
「……最近どこのコンビニもキワモノに走り出してるのは知ってるけど、それはないだろ」
「そうかな、まえ、どっかのコンビニで見たような気がするけど」
「気のせいだろ。さっきのは具がない」
「あれ、そうだっけ?」
「けどあったら面白そうだ、頼む」
「わかった。じゃあ、いってくるよ」
 ドアが開き、閉まる。
 そのあと再び横たわる稲穂を見やる。今稲穂の呼吸は乱れていない。傷それ自体はそれほどでないはずだ。
 だが、そうは思えないほど稲穂の顔は白い。今はこうして息をしているのがはっきりと分かるが、写真で見ると、十人中六人は死体か思ってしまうだろうほど白い。
 稲穂を丸一七年見てきた鹿島としては、目の前にいるのが稲穂ではないという思いにとらわれてしまう。目の前にあるのは、稲穂の形をした、稲穂でない何かだ。
 その表情のない稲穂を見ていると、より強く、目の前にいる幼なじみを自分の心の奥深くに住まわせていたかが分かる。
「ごめん………」
 「誰の」言葉か、それすら分からない。タケミカヅチとしてクシナダになのか、あるいは高原鹿島として櫛田稲穂になのか。
 ただ、どちらでも謝り切れないほど責任を抱えていることだけは確かだった。
 許せない。神代も今も、自分の愛した、何より大切に想う相手が、自分以外の人間を選ぶことに耐え切れなかった自分が。欠陥穴だらけの計画を成功させてしまった自分が。
 タケミカヅチの「力」を覚醒させていけば、否応なくタケミカヅチの「記憶」も覚醒していく。その誘導を少しでも間違えれば、タケミカヅチの記憶が完全復活してしまう。
 そうなったら、もうシダイが入りこむ余地はない。タケミカヅチの中で、クシナダへの想いはもう完全に決着している。だから、そうならないよう、タケミカヅチの力だけを覚醒させる一方、記憶は鹿島のまま追い詰めなければならなかった。
 結果として上手くいったが、それはシダイの誘導が巧みだったからではない。誘導される鹿島に、豊かな質量の嫉妬や不安や疑念があったからだ。穴だらけの計画を成功させてしまったのは鹿島自身だった。
 タケミカヅチに、責任はない。今なら、はっきり思い出せる。さらわれる一瞬でクシナダの元へ駆け寄れたのは、自分に応えない相手のため命をかけることを少しも躊躇わなかったからだ。つまり、自分が全面的に悪い。鹿島には、そうとしか思えない。
「ごめん………」
 白すぎる稲穂を見ながら、謝る。苦しむ稲穂に対して、自分は何もできない。自分がしたことといえば、嫉妬のままに操られ、稲穂を傷つけただけ。
「ごめん……」
 一m先の稲穂に意識があっても聞きそびれるほどの声を、ようやく口にする。
 そうして、どれだけ時間が過ぎただろう。
「……ん……ね」
 稲穂の口が微かに動いた、ように見えた。
「……稲穂?」
 鹿島の問いに、再び言葉が続いた。今度ははっきりと意味のある言葉を稲穂は口にした。あまりにも辛い言葉を。
「やさ……か……くん……」
「……」
 わかりきったことのはずなのに、がく然としてしまう。数時間前学校で八坂が意識を失った時、突然八坂が稲穂を抱きしめ、唇を合わせたとき、既にはっきりしたことだ。
 今も鹿島が稲穂を心の最深部に住まわせているように、稲穂は八坂を心の最深部に住まわせている。神代も、今も。わかりきったことだ。
 稲穂の言葉は続かない。苦しんでいる風情すらない、生命を感じさせない表情をした稲穂のまま。
「そう、だよな」
 ここにいるべきなのは自分ではない。神代もそうであったように。
 改めて自分のすべき事、しなければならないことを確認し、座ってから一oとて動かさなかった意識と身体を動かす。
「奴は必ず俺が倒す。刺し違えても……いや、刺し違えて、俺が必ず倒すから……だから、それまでを頑張ってくれよ」
 ある種の覚悟が、鹿島に訂正させる。
 最悪刺し違えてでも勝つのではなく、刺し違えて奴を倒すのが一番いいのだ。負けるわけにはいかないのは当然だが、では今更勝って、生き残ってどうなるのだ。今更どの面下げて戻ってくるのか。
「がんばれよ、稲穂」
 立ったまま、やっぱり血の気のない、白い額へ、優しく右手を置く。
 全ての迷いを断ち切って、歩き出す。
 一歩距離が開くつど、心が悲鳴を上げる。
 ドアノブが手に触れた。
 決然として、をその向こうにいまだ見たこともない戦うべき敵を意識する。そして、ノブを回す。
「……まって、か……しま……くん」
 か細い、幻聴かと思うほどの声が背を叩く。
 ノブに手をかけたまま、立ち尽くす。頭はそれが幻聴ではないと理解している。だが、この言葉に反応してしまったら、その後稲穂の性格からして謝罪の形をとるだろう言葉を聞かねばならないことが怖い。
 だから、心はこの声を無視しろと命令する。
 そして、鹿島は頭よりも心に従った。ノブを回し、ドアを開く。
「まって………」
「いいんだ。頑張れよ」
 部屋から出て、ドアを閉める。
「……って………く……」
 ドアを隔てただけで聞こえなくなってしまう、三度目の小さな小さな声。
「くそ………っ」
 何一つ変わっていない、現実を直視できない脆弱な自分への怒りが胸を焼き尽くす。
 振り返って、ドアノブに手をかける。
 何かが、倒れる鈍く乾いた音。
「まさか……」
 ドアを開け放つと、稲穂は倒れていた。ベッドからドアまで三mとない病室の真ん中辺りで倒れていた。鹿島と同じ淡い水色の、柄も何もない無個性な作りのパジャマを着て。
「稲穂、しっかりしろ!!!」
 鹿島こそ医者にかるべきだろう蒼白な顔で、稲穂を抱き起こし、優しくゆさぶる。
「なんで、どうして……」
「かしまくん……」
 さっきよりいくらか血色の回復した顔で苦しそうに、それも押し込めようとして精一杯笑いかける。
「どうして、こんなことを………」
「ごめんね……」
 予想通りの言葉だ。
「待ってろ、今すぐ先生を呼ぶから」
「……わたしは大丈夫。その前に、少し話しておきたことがあるの……」
 これ以上なく懇願している目。
「…わかった。だからベッドに戻るんだ」
 今はもう、稲穂の容体だけを案じている。
 さっきまで頭の中を占領していた、いまさらの確定事実を稲穂から宣告されたくないという思考は、もうどこにもない。ただあるのは、稲穂を気遣う想いだけ。
「立てるか?」
 へたり込んだまま、いたずらっぽい、子供の頃何度も見た表情で、鹿島を見返す。
「だっこして」
「……わかったよ」
 そのまま、鹿島は稲穂を抱き上げる。赤ん坊のように胸の辺りで手をすくませる姿勢を意図的に作ったまま、稲穂はベッドまでの三メールない距離を移動した。
「体は起こしておきたいの」
 鹿島は枕を立てかけ、寝ていれば頭の向こうという場所になるパイプの部分に、背もたれを作ってやる。
「ありがと、鹿島君」
 力のない、儚げな微笑。
「辛くなったらすぐ言えよ、先生呼ぶからな」
 だがその必要はなさそうだ。稲穂の呼吸は規則正しいものに戻り、血色もさっきより回復しつつある。
 そう判断してさっきまで座っていた背もたれのない椅子に腰を下ろす。鹿島が座る椅子はベッドほどの高さがなく、稲穂が鹿島を少し見下ろすような形だ。
「話って、何だ?」
「鹿島君、思い出してるでしょ?」
「一通りな」
「それなら、一つ聞きたいことがあるの」
「……どうかしたか?」
 いきなり謝罪の言葉が始まると思っていたので、少々意表を突かれる。
「あなたは、誰?」
「……え?」
「君、誰?」
 言葉の意味を計りかねている鹿島に、再びいたずらっぽい、鹿島が一七年間見続けてきた、櫛田稲穂の声と表情がかかる。
「俺は、高原鹿島だよ」
「うん、君は高原鹿島で、私は櫛田稲穂よ。私はクシナダじゃないし、君はタケミカヅチじゃないし、八坂君はスサノオじゃないわ」
 目の前の幼なじみが何を言おうとしているのか分からないが、生半可な考えや言葉で遮ってはならないことだけは確信して、心の重傷人は言葉が続くのを待つ。
「私はクシナダじゃないわ。タケミカヅチにもスサノオにも会ったことなんてないの」
 ここで一息つく。幾らか回復しても、長い会話はそう楽なことではないようだ。
「大丈夫か?」
「うん、大丈夫。それでね、私は会ったこともない人を好きになんてなれないし、私が誰かの一部だとしても、心までその人と同じじゃないよ。私は私なの」
「そうさ、稲穂は稲穂だ」
「うん、鹿島君は鹿島君だよね」
 見慣れた、だが鹿島が今までその価値をまるで理解していなかった笑顔の稲穂。
(そうだ、稲穂は稲穂だ)
 鹿島が自ら死を選ぼうとしたのも、稲穂を殺したくなかったからだ。クシナダも封印も何も関係ない。
(俺は俺、高原鹿島は高原鹿島だ。俺なんてタケミカヅチの魂についたシミみたいなものだとしても、俺の心は俺のものだ)
 心から、そう思う。
「鹿島君はどうして私を守ってくれるの?」
「そんなの決まってるだろ。稲穂が襲われれば俺は守る。当たり前じゃないか」
「それだけ?」
「……」
「私はね、道場で{お前を守りたいって思ってたら、こんな力があった}って言ってくれたときなんて、飛び上がりたくなるくらい嬉しかったわ。まるで漫画か小説みたいに凄い力まで覚醒させて、鹿島君が守ってくれるのが私は嬉しかったの。誰でも良かったんじゃなくて、鹿島君だから嬉かったんだよ」
 また、いたずらっぽく鹿島を見る。
「だからこたえて。どうして鹿島君は私を守ってくれるの? 私がクシナダで、タケミカヅチとして昔のことを後悔してるからなの?」 
「………違うよ、俺は俺として稲穂を守りたかったんだ」
「どうして、守りたいと思ってくれたの?」
「それは………」
 沈黙が、蛍光灯の光で明るくても、どこか暗い雰囲気のする殺風景な個人病室を支配した。
「………人に聞いておいて、わたしが何もいわないのは卑怯よね」
 そして、軽く深呼吸。それと同時にもともと血色に乏しかった顔が通常人の水準まで一気に回復した、ように見える。
 その後ベッドに座ったまま、一瞬鹿島から視線を外し、天井を見る。別に天井に用があったわけではない。単に、何となく、これから口にする言葉の内容を思うと、その相手を直視できなくなってしまうだけのことだ。
 だが、いつまでも天井を見ているわけにもいかない。これは、これこそは、きちんと相手の目を見て言うべきことだから。
「私は、櫛田稲穂は、あなたが、高原鹿島が守ってくれるって言ってくれたことが、本当に嬉しかったわ。いつからかははっきりわからないけど、いつの間にか鹿島君のことが大好だったから、嬉しかったの」
 その後、達成感のための一息。
「え……」
「わたしはわたし。会ったこともないスサノオなんて知らないわ」
「……でも……」
「道場ではじめて右手の力を見たときや、学校で八坂君に抱き締められた時は、いきなりクシナダがでてきて自分でも何がなんだかわからなくなってたの。あれはわたしじゃないわ。心も体も、全部クシナダだったんだよ」
「でも、俺が守るって言ったときも、あんまり喜んで………」
「鹿島君の力を見てクシナダが出かけてたっていうものあったけど、それ以上に怖かったの。私を守ろうとしたせいで、またもし鹿島君に何かあったら、って思ったら……」
「……じゃあ、何で八坂は?」
「八坂君は、殺しても死にそうにないし」
「……」
 かなり無理した、似合わない乱暴な言いように、鹿島は面を食らう。ただ、その込められた思いは、最高純度の本心だった。
 誰よりも大切な相手だから、危険にさらしたくなかった。それは、鹿島が八坂以上の力を持っていても同じことだ。
 一しきり言いたいことを言いきって、稲穂は満足げにため息をつく。
「さあ、次は鹿島君の番よ。どうして鹿島君は私を守ってくれるの?」
「でも、俺は………」
「人を好きになるのって、そうじゃないよ」
 稲穂が言う。八坂に何一つ及ばない自分が、八坂を差し置いて稲穂に選ばれる資格などあるか。その自問を実体正確に見ぬいて。
「まず私は鹿島君が好きなの。その後理由を考えるなら、いつも一生懸命で、まっすぐなところ。その鹿島君が、これまでに一番一生懸命な顔で{稲穂を守りたい}っていってくれて、私は本当に嬉しかったわ」
 赤い顔のまま、稲穂の言葉は更に続く。
「さっき眠ってる間に、クシナダが謝ってたよ。中途半端に覚醒してごめんなさいって。{私がスサノオ様を愛したように、あなたもその心の中にいる人を愛して下さい}って言ってくれたわ。けど、そんなの関係ないわ。私は私が好きな人のことを好きになるの。正直言って余計なお世話ってやつよね」
「俺は……」
「別にタケミカヅチが悪いわけじゃないよ。スサノオは高天原に逆らったんだし、クシナダはスサノオに連れ去られるの抵抗しなかったんだもの。本当に責任があるのはあの二人、っていうのもおかしいのかな。どっちも人間じゃなくて神様なんだし」
 微笑みながら、稲穂は力強くかつての自分と夫を他人として言い切る。
「あの人たちは側に誰かがいたから、辛いことも分かち合うことができたけど、タケミカヅチには誰もいなかったから、辛いことだけ一人で背負うしかなかったのね」
「……」
「だからわたしたちも、これからもいろんなことを、いいことだけじゃなくて、辛いことも一緒に背負っていこうよ、ね?」
「稲穂……」
 何から伝えればいいかまるで分からず、ただそれだけ言う。少なくとも、それだけ言っているうちは、間違えなさそうだから。
 そんな思いを抱え続ける鹿島に、極小の不安と幾らかのからかいを含んだ声がかかる。
「わたしじゃ、駄目?」
「そんなことない!!!! そんなこと、あるはずがないだろう!!!」
「だったら、鹿島君もはっきり言って、わたしにいわせっぱなしにしないで」
「あ……」
 何を言えばいいか分からないどころではない、しっかりと言葉をもとめられていたではないか。
「俺は……」
 言いながら、目に水が出て、頬辺りを伝っていることを自覚する。
「俺は………高原鹿島は―――」
 自分が自分であることを忘れないように、繰り返す。
「櫛田稲穂が好きだ。ずっと前から、稲穂のことが好きだった。だから、守りたかった。稲穂を守りたかったんだ……」
「うん、わたしも」
 この涙、成分を分析すれば悔しさが八割以上だろう。自分の本当の気持ちを、稲穂の言葉を借りてしか伝えられないこと、けが人でしかも女の稲穂に先に言わせてからしか伝えられないことが悔しかった。
「稲穂、ごめん………」
「そうよ。女の身体をきずものにうえ、先にここまで言わせるなんて、謝ったくらいじゃ絶対に済まされないんだからね」
「……ごめん」
 涙が止まらない。それ以上声を出せば、言葉になるとは思えない。
"いや、もう言葉が必要な時間はとうの昔に過ぎているのだ"
「……!?」
「……!?」
 不意にした声に驚き、二人が辺りを見回すと、いつのまにか部屋の片隅で、何故か体育座りなんぞしている八坂がいた。
 今の今まで、二人は互い以外が目に入っていなかった。そんな二人の目と耳をかいくぐることなど、八坂ならば例えコンビニのビニール袋を下げた状態であっても簡単だろう。
"すれ違いを続けていた想いは、ようやく交わることができた。もう止まらない。燃え上がる二人の心は互いを引き寄せ、そして折り重なる。見えるのは互いだけ。若い二人は燃え上がる思いのままに……"
 体育ずわりのまま、妙なことを呟いている。
「何を……しているんだ?」
「なに、してるの? 八坂君?」
「ああ、いやごめんごめん。こういういい感じの雰囲気だったからBGMでも流したいところだったんだけど、あいにく病院でそんな道具もない。だから僕のト書きアナウンスで我慢してもらおうかと思ってさ。さあ、遠慮なく続きをどうぞ」
「続きなんて、できるわけないじゃない」
「それは、人目がなかったらそのまま行くところまでいくつもりだった、って表現の裏返しだったと思っていいのかな?」
「!」
「人目がなければ意欲十分。要注意、と」
 即座に切り返され、稲穂は言葉に詰まった稲穂を面白そうに見つつ、八坂は右手に収まった手帳に呟きながらかきつける。
「全く、いい性格してるよ。お前は」
「まあね。こういう温厚で善良で健全な性格に相応しい健全で頑丈な身体になってるよ。実は今戻ってくるときも大型トラックとタンクローリーに三回づつはねられんだ。しかもタンクローリーが引火したから、今外は一面火の海阿鼻叫喚の地獄絵図だったりするんだけど、僕はこの通り平然としてるよ。これなら確かに殺しても死なないかもね」
 立ちあがりながら、しれっという。
「稲穂がそう言った時には、この部屋に戻ってきていたわけか」
「そんな酷い目にあってまで買ってきたのに、もう要らないか。僕も報われないなあ」
 八坂はビニール袋から缶ビールを取り出す。
 さっきまでの鹿島は、多少は酔いでもしなければ眠れそうにないと思ったのだろう。
「八坂、お前そのビールその格好のまま買ってきたのか?」
 八坂の今の格好は、高校の制服だ。
「嘘をつくときや犯罪をやる時は堂々とするのが重要なポイントでね。下手にこそこそせず堂々と買えば、逆に父親に頼まれて買いに来たと勝手に思ってくれるものさ」
「……まあいいか。景気付けに飲もうぜ」
「お酒は駄目。私達高校生なんだよ」
「そういう人間の法律って、僕達みたいな神というか非人間にも適用されるのかなあ」
「屁理屈こねないの。駄目なものは駄目」
「ああ、神代は良かったなあ。飲酒に関する法律なんて無粋なものはなかったよ」
 数日振りに、平和な空気が戻ってくる。
 その空気が、すぐに破壊された。
「……う…んっ」
 稲穂が、身体を屈めて声をこもらせる。
「大丈夫か? 稲穂?」
「うん、大丈夫だよ。ちょっと、背中の傷が痛んだだけだから……」
 苦痛を押して言う稲穂も含めて、全員がはっきり理解している。
 今、シダイがどこかで蠢いた。それが、傷ついた稲穂を微かに蝕んだのだ。
 まだ、何も終わっていない。決着がついたのは、鹿島と八坂と稲穂の間の話であって、神代からの因縁は何も終わっていないのだ。
 既にシダイはスサノオの封印から解放された。鹿島を追いつめる必要などない。個体としての力を取り戻したら、すぐに今までなどとは比較にならないほど執拗で徹底的な攻撃を展開できるだろう。これに対しこちらの保有戦力は鹿島と八坂だけ。ほかは操られる危険を考えれば全く信用できない。
「どうすれば……」
 今の現実を、この上なく強烈に思い知らされた。何でもいい、何か手はないのか。
「……上手くいくかもしれない方法が、一つだけある……けど、これは……」
「話してくれ。どんな方法でも、やらないよりはましなはずだ」
 すがるように、八坂を見ると、八坂も軽く肩を動かしてから、稲穂と自分を見る。
「稲穂ちゃんを守りたい僕達は当然、奴だって完全復活のためにも、稲穂ちゃんが自分以外の誰かの手にかかるようなことがあったら困る。一番欲しい物を敵の手に委ねている。これは、確かな奴の弱みなんだ」
「ちょっと待て、けどそれじゃあ……」
「そう、僕達の方から奴に対して脅迫するんだよ。稲穂ちゃんを殺されたくなかったら、指定した場所までこい。そこで戦って勝ったほうが稲穂ちゃんを取ろうってね」
「……けど、それは……」
 八坂が言いすぼんだのと同じ理由で、今度は鹿島が言葉を失う。
 確かに効果だけを考えれば、極めて有効だろう。今まで防戦一方だった鹿島達が、はじめて戦いの主導権を握れるのだ。しかし主導権を握るためには、ただのハッタリではだめだ。先に鹿島らを殺さなければ、稲穂に手はだせない。無理に手をだせば稲穂はクシナダの魂ごと完全に死ぬ。一歩間違えれば自分たちで稲穂を殺しかねない。自分達でそこまでやらなければ、現在圧倒的有利なシダイをおびき出せはしないだろう。
「それは………」
「いいよ。それしか方法もなさそうだし」
 稲穂が、息を呑んでから言う。
「私はゆっくり眠ってるから、心おきなくがんばってね。二人とも」
 「一緒に戦えなくてごめんね」とはいわない。いえば稲穂を戦えなくした責任を追求することになってしまうから、言わない。
 その心遣いに報いる道は一つ。勝つことだ。
「それじゃあ、やろうか。奴は時間と共に力を回復させていく。やるなら早い方がいい」
「うん……あ、ちょっと待って」
 ベッドに身体を横たえた稲穂が横を向いて鹿島達から一旦目をそらし、また戻す。
 今布団で顔の下半分を覆い隠しているが、一目で分かるほど全体が真っ赤になっていた。
「……呪いで深い眠りについたお姫様って、どうやって起きるか、鹿島君知ってる?」
「……は?」
 尋ね返す鹿島とは対照的に、八坂は言葉の意味を正確に理解し、結構必死に笑いをこらえている。
「いやあ、夢見る乙女だねえ。やっぱり女の子って言うのは、いつまでも白馬の王子様に心のどこかで憧れてるものなのかなあ」
「もう、八坂君……からかわないで!!」
 しばらくして、ようやく鹿島もその言葉の意味する所を理解した。
「俺は王子様じゃないからな、同じ方法でやっても効果はないだろ。まあ、俺なりのアプローチでやってみることにするさ」
「例えばどんなだい、鹿島?」
「足をくすぐるとか、水をぶっ掛けるとか。耳元で妙なお経を唱えるとか……」
「耳に息をかけるとか、首筋に舌をはわすとか、パジャマのボタンに手をかけるとか……」
「……いい加減にしろ、八坂」
「こっちは、満更でもないみたいだけど?」
 稲穂は、顔が完全に真っ赤だ。お湯が欲しいなら、すぐやかんでも置くべきだろう。
「……分かったよ。王子様と同じ方法で起こしてやる。だから心配するな」
「八坂君、証人になってくれる?」
「お任せあれ、姫」
 嘘臭い恭しさで答えつつ、八坂は「愛の記録−永遠の絆(副題。今つけた)」にメモる。
「鹿島はこれが終わったらこの部屋で…… うーん駄目だ。ほとんど伏字で、一八歳以下には意味のある日本語の文章にならないよ」
「黙れよ」
「…BGMは{信号機黄色のテーマ ―嗚呼、所詮は通過点の悲しみ―}、と」
「どんなテーマだよ……」
 鹿島は、軽く頭を掻く。
「じゃあ、やるぞ」
「頑張ってね。二人とも」
「これが終わったら、三人でどっかに遊びにいこうな。そのために身体を直しておくこと、そのために、稲穂は全力を尽してくれ」
「うん、頑張るね」
 嬉しそうに、稲穂は笑う。
「{三人で}って、僕も行くのかい?」
「嫌か?」
「他人が幸福なところをこれでもか見せつけられても、あんまり面白くないなあ」
「せいぜい悔しむんだな」
「そうだね。もてない男は腹いせに、クラスの皆にも連絡して、四十人くらいでぞろぞろ君達を追い回すことにするよ」
「あのな……」
「幸せは課税対象にするべきなんじゃないか、って僕は最近思うようになってるんだ」
「はいはい」
 それだけ言うと、鹿島は目を閉じた稲穂の額に右手を乗せる。
「頑張ってね、鹿島君。ついでに八坂君も」
「ここまで露骨に差別されると、かえって晴れ晴れした気分になってくるね」
「お休み、稲穂」
「うん」
 鹿島と八坂の右手が光を帯びる。その光が稲穂の頭を経て、全身に流れ込む。
 目を閉じていただけの稲穂から力が抜け、穏やかな寝息が聞こえてくる。
 今度二人は稲穂から離れ、扉の前に立つ。
「すぐ、終わらせるからな」
「待っててよ、稲穂ちゃん」
 そういうと二人はベッドに手を伸ばし力を込める。光がベッドを中心に半径二mほどを包み込んだ。
 微か光が強まった後、目に見える異常なは何もない。ただ、感じる。ベッドで草木のように眠る稲穂が「何か」に守られている。
 これは、何らかの神霊的圧力を受けた場合、その内部にある者を跡形もなく破壊、消滅させるという特殊な結界だ。
「じゃあ、僕はこの部屋のことを院長さんに言付けておくから、鹿島は屋上で待ってて」
「分かった」
 外ではなく屋上と指定されたことには、何の疑問も感じない。言われた通り鹿島は屋上に向かい、屋上で少し待つと、八坂がビニール袋片手にやってきた。
「お待たせ、言付けはしておいたよ。最後の戦いにパジャマじゃあんまりにカッコ悪いにからね」
 渡されたビニール袋には、洗濯された鹿島の学生服が入っていた。血の汚れは簡単に落ちないらしくまだシミがついていたり、そこかしこが引き裂かれていたりしているが、まあパジャマよりはましだろう。
「よし、じゃあ行くか」
「じゃ、号砲をどうぞ」
 促されて、鹿島は右手に力を込める。本当に、自分が望むものを、願うものを手に入れるために、守るために力を込める。倒すべき敵へのメッセージを込めて。
「はっ!!!!!!」
 鹿島を中心に光が広がり、そのまま半径二mほどの円柱となってはるか夜空へと伸びていった。
「じゃ、お先に」
 八坂が、言うと同時に強く光って消えた。
「待ってろよ。俺は必ず帰って来る」
 同じように鹿島も右手に力を集中させる。
 白い光に、全てが包まれた。

 

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